ARTISTS
瀧口修造
Shuzo Takiguchi
瀧口修造は1903年富山県生まれの詩人、美術評論家。ウィリアム・ブレイクやアルチュール・ランボーに傾倒し、慶應義塾大学英文科在学中より詩作。26年に『山繭』の同人となり、大学では詩人・英文学者の西脇順三郎の教えを受ける。前衛的な詩誌『詩と詩論』『衣裳の太陽』の創刊に関わり、また早くからシュルレアリスムの動向に注目すると、30年にアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』の翻訳を行う。31年に大学卒業。東宝の前身にあたるピー・シー・エル映画製作所に勤務した後、日本大学芸術科の教壇に立つ。この間、美術評論や詩を発表し、37年には詩人の山中散生とともに「海外超現実主義作品展」を開催。38年に主著『近代芸術』を、40年にジョアン・ミロに関する世界初の論文を出版。しかし戦時下にあってこれらの活動は特別高等警察に監視され、41年に8ヶ月間拘束される。
戦後、47年に「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」の結成に参加。49年に開催された「第1回読売アンデパンダン展」で様々な若手作家を知り、また北代省三や山口勝弘、福島秀子らと交流。これをきっかけに51年、詩人や美術家、音楽家、技術者らも加わった総合芸術グループ「実験工房」を発足する。同じ頃、タケミヤ画廊(東京・神田駿河台)での展覧会の企画に無償で携わり、瑛九、小山田二郎、池田龍雄、岡上淑子、草間彌生、河原温、加納光於、池田満寿夫、野中ユリらを見出す。58年、ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして渡欧。アンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、マルセル・デュシャンらと会う。
渡欧を経て心境の変化があり、60年代以降は制作・造形的な実験を本格化。デッサン、転写絵のデカルコマニー、焼け焦がしと水彩によるバーント・ドローイングなどを制作し、初個展「私の画帖から」を南天子画廊(東京、1960)にて行う。のちに自身の書斎を「オブジェの店」とすることを構想。看板にはデュシャンから贈られた店名「ローズ・セラヴィ」を掲げ、手づくりのオブジェや収集物、旅の土産品などを、詩を添えた箱に詰めて友人たちに郵送する、あるいは手渡しする架空の店を開く。命名の返礼として、デュシャンのために、美術家・岡崎和郎の協力を得て『マルセル・デュシャン語録』(1968)を刊行。岡崎とともに、デュシャンの代表作《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)》の一部である《眼科医の証人》を立体化した《檢眼圖》(1977)も制作している。
晩年まで作家たちへの支援を惜しまず、赤瀬川原平の「千円札裁判」では特別弁護人として立ち会ったほか、60年代に兆したアングラ文化に注目して、土方巽の暗黒舞踏や唐十郎らの状況劇場などの観劇に訪れた。著書に、『妖精の距離』(阿部展也画、春鳥会、1937)、『滝口修造の詩的実験 1927-1937』(思潮社、1962)、『余白に書く』(みすず書房、1965)、『シュルレアリスムのために』(せりか書房、1968)、ジョアン・ミロとの共著『手づくり諺』(南画廊、1970)と『ミロの星とともに』(平凡社、1978)など。詩集・詩画集、シュルレアリスムやデュシャン、写真に関する評論、美術家や詩人たちとの共著、自ら装丁を手がけた私家本などを数多く残している。79年没。
戦後、47年に「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」の結成に参加。49年に開催された「第1回読売アンデパンダン展」で様々な若手作家を知り、また北代省三や山口勝弘、福島秀子らと交流。これをきっかけに51年、詩人や美術家、音楽家、技術者らも加わった総合芸術グループ「実験工房」を発足する。同じ頃、タケミヤ画廊(東京・神田駿河台)での展覧会の企画に無償で携わり、瑛九、小山田二郎、池田龍雄、岡上淑子、草間彌生、河原温、加納光於、池田満寿夫、野中ユリらを見出す。58年、ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーとして渡欧。アンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、マルセル・デュシャンらと会う。
渡欧を経て心境の変化があり、60年代以降は制作・造形的な実験を本格化。デッサン、転写絵のデカルコマニー、焼け焦がしと水彩によるバーント・ドローイングなどを制作し、初個展「私の画帖から」を南天子画廊(東京、1960)にて行う。のちに自身の書斎を「オブジェの店」とすることを構想。看板にはデュシャンから贈られた店名「ローズ・セラヴィ」を掲げ、手づくりのオブジェや収集物、旅の土産品などを、詩を添えた箱に詰めて友人たちに郵送する、あるいは手渡しする架空の店を開く。命名の返礼として、デュシャンのために、美術家・岡崎和郎の協力を得て『マルセル・デュシャン語録』(1968)を刊行。岡崎とともに、デュシャンの代表作《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)》の一部である《眼科医の証人》を立体化した《檢眼圖》(1977)も制作している。
晩年まで作家たちへの支援を惜しまず、赤瀬川原平の「千円札裁判」では特別弁護人として立ち会ったほか、60年代に兆したアングラ文化に注目して、土方巽の暗黒舞踏や唐十郎らの状況劇場などの観劇に訪れた。著書に、『妖精の距離』(阿部展也画、春鳥会、1937)、『滝口修造の詩的実験 1927-1937』(思潮社、1962)、『余白に書く』(みすず書房、1965)、『シュルレアリスムのために』(せりか書房、1968)、ジョアン・ミロとの共著『手づくり諺』(南画廊、1970)と『ミロの星とともに』(平凡社、1978)など。詩集・詩画集、シュルレアリスムやデュシャン、写真に関する評論、美術家や詩人たちとの共著、自ら装丁を手がけた私家本などを数多く残している。79年没。