櫛野展正連載:アウトサイドの隣人たち ⑦ピン球入魂の道化師

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたキュレーター・櫛野展正。現在はギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちにインタビューし、その内面に迫る連載の第7回は、「へのへのもへじ」に囲まれた卓球場を運営している斎藤善郎さんを紹介する。

「へのへのもへじ」の帽子をかぶりポーズをとる斎藤善郎
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思えば久しぶりにラケットを握った。中学生のとき卓球部だった僕は、フットワークこそ秀でていたものの、バックスピンや回転サーブなどを繰り広げる対戦相手に苦戦していた。ネットの向こうにいるのは、「へのへのもへじ卓球場」のオーナーである、斎藤善郎(さいとう・よしろう、80歳)さんだ。

ここは秋田県南部に位置する日本海に面した町、由利本荘市。この卓球場は、斎藤さんが1400を超えるブイやピンポン玉などに「へのへのもへじ」を描き、建物の外観から内装、床までをも埋め尽くした、一風変わった場所として知られている。

へのへのもへじ卓球場の外観

斎藤さんは、1936年、秋田県由利郡南内越村(現・由利本荘市)で4人兄弟の末っ子として生まれた。子どもの頃から運動が好きで、小学校6年生のときには少年野球でピッチャーを務めたこともあるそうだ。中学卒業後は、秋田県立西目農業学校(現・秋田県立西目高等学校)へ進学するも1年で退学。兄の勧めで、船員になるために北海道の小樽海員学校(現・国立小樽海上技術学校)に転校し、寮生活を送った。

やがて東京の日本鉱業(現・ジャパンエナジー)に就職し、船の機械や装置の運転管理を行う機関部に配属された。「ここからが大変でした」と自ら振り返るように、船員として外国航路を行き来する船上生活が始まる。家に戻れるのは、1年に1度の1か月間だけだった。

斎藤さんは、29歳のとき4歳下の時子さんと見合い結婚し、2人の子どもを授かった。まるで織姫と彦星のように、斎藤さんを乗せた船が日本に停泊する度に、時子さんは一目会うためその港へと足を運んだという。しばらく亭主不在の家族生活が続いたが、長男の小学校入学を機に、子どもたちのことを考えて16年間働いた会社を退職。地元に戻ってからは、知人と電気機器製造の下請け会社を設立した。

やがて55歳で定年(当時)を迎えると、斎藤さんは近所の卓球サークルに通い、卓球を習い始めた。中学の頃に廊下で卓球のまねごとをして友だちと遊んでいたり、船員の頃には船の中に卓球台があったりと、斎藤さんにとって卓球はいちばん身近なスポーツだったようだ。県大会で優勝するほどの実力の持ち主で、たくさんの賞状が卓球場には飾られていた。80歳になったいまでも練習に参加し、年間20試合ほどをこなす現役選手だという。

63歳のときに、自宅の隣にある貸し店舗として使われていた建物を購入。「駐車場にしようと思ったけど、更地にするだけで200万円もかかるので、それなら」と、「鶴舞卓球道場」としてオープンさせた。当時、卓球選手の福原愛がテレビで人気を博していたこともあり、開館から多くの人が利用したそうだ。

そんな卓球場に転機が訪れたのは、いまから10年前、70歳のときのこと。山形県上山市の「かみのやま温泉全国かかし祭」を夫婦で訪れた際に、かかしの顔に「へのへのもへじ」が描かれていたのを見て、斎藤さんは突然閃いた。当時、近くの海でよく釣りをしていた斎藤さんは、韓国や中国から流れついたたくさんのブイを浜から持ち帰り、「へのへのもへじ」を描いてみた。建物の外に50個ほど飾ったところ、いままで以上に多くの人が来てくれるようになり、それから病みつきになった。耳のついた「へのへのもへじ」や、ミッキーマウスのようなキャラクターなど、実に多種多様なイラストを描いた。

2012年、76歳のときに全国ネットのテレビ番組で取り上げられてからは、店の名前を「へのへのもへじ卓球場」に改名。それからというもの、「始末に困るから」と「へのへのもへじ」をつくるのを止めた。全国区の番組に出たことが、ひとつの区切りとなったようだ。

耳のついた「へのへのもへじ」が描かれたシューズボックスは椅子にもなる仕掛けだ

それにしても、この卓球場がメディアで取り上げられる際、「『へのへのもへじ』で埋め尽くされた場所」としてしか紹介されないことが多い。けっしてそれだけではない。ここは、実に利用客に配慮したサービスや工夫に満ちた卓球場なのだ。

実際に卓球をプレイしてみて、それが初めてわかった。ピンポン玉が卓球台の下に落ちても足元に戻ってくるように、床には傾斜がついている。喉が渇いてもすぐ飲めるように、自宅の冷蔵庫で保冷された飲み物が、原価で販売されている。購入した飲料や携帯電話など小物を置いておく、可動式の台もある。部屋の隅にある室内シューズを保管するための箱は、なんと椅子にもなる仕組み。たくさんのピンポン玉を使って練習する際には、扇風機の台座を再利用して制作された「トレーニングボール入れ」が便利で、ラケットやボールを持参しなくても、30分120円ほどで利用できてしまう低額な料金設定も魅力だ。

そして、7年ほど前にパソコンを購入したことがきっかけで、店内にプリントした写真を飾るようになり、これまでのメディア掲載の記録写真にまぎれて、県内に咲く花の写真など観光情報もさりげなく紹介している。

斎藤が自作したトレーニングボール入れ。台座は扇風機を再利用している
卓球場の内観の様子。ところせましと「へのへのもへじ」や、県内に咲く花の写真が飾られている

たしかに一見すると、「へのへのもへじ卓球場」は「珍スポット」として消費されがちな外観や内装を含んでいる。しかし、長年、年中無休でお客さんと接し、実際にプレイするなかで斎藤さんがヒントを得て自作してきた小さな発明品が、ここには溢れている。これこそまさに、「無用の用」だろう。

もともと無口だったという斎藤さんは、自作の「へのへのもへじ」ヘルメットを被って、まるで道化師のように、今日も中学生のお客さんを相手におどけている。「僕も年配なもんだから、いつあの世さ逝くかわからないもんで、ボケ防止も兼ねて楽しんでいるんです」と、彼は謙虚に語る。「へのへのもへじ」の奥に隠された斎藤さんの細やかなサービス精神がこの卓球場を支えてきたことを、僕らはそろそろ知るべきなのだ。

PROFILE

くしの・のぶまさ 「クシノテラス」キュレーター。2000年より知的障害者福祉施設職員として働きながら、「鞆の津ミュージアム」(広島) でキュレーターを担当。16年4月よりアウトサイダーアート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。

http://kushiterra.com/

日本初となる、死刑囚の作品集が刊行!

死刑囚が刑務所で描いた絵を紹介する、櫛野展正編著の作品集『極限芸術〜死刑囚は描く〜』(クシノテラス)が6月に発売された。和歌山毒物カレー事件(1998年)の林眞須美、秋葉原通り魔事件(2008年)の加藤智大ら42人の作品を紹介。椹木野衣、田口ランディによる論考も掲載している。死刑執行を待つ日々のなかで彼らが描いた極限状態を、ぜひ手にとってほしい。

http://kushiterra.base.ec/items/3440347