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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:追悼、小川卓一

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第36回は、尾道で私設美術館「ふりむき館」を運営してきた小川卓一を追悼する。

文=櫛野展正

小川卓一

 新型コロナウイルスの感染拡大以降、なかなか開催することはできていないが、僕は「アウトサイドの現場訪問」と名付けた訪問ツアーを継続して開催している。これまで北は青森から南は沖縄まで、全国各地で20回以上に渡って、表現者の自宅やアトリエを訪ねるツアーを繰り返してきた。2019年にタレントの井上咲楽さんらと訪問した場所のひとつが、広島県尾道市で閑静な住宅とのどかな田園風景が混在する高台のなかにある私設美術館「ふりむき館」だ。製綿工場の跡地を利用して30年ほど前に開設したこの美術館は、館内外に小川卓一さんの膨大な石の彫刻や絵画作品が並べられており、地元の人だけに知られるかたちで密かに増殖を続けてきた。

「アウトサイドの現場訪問」でふりむき館を訪ねたときの様子
ふりむき館の内部

 僕が最初に小川さんと出会ったのは、2013年のこと。地元にある美術大学の学生が、「ふりむき館」の前を通りかかったところ、小川さんに声をかけられ、館内に足を踏み入れたことがきっかけだ。「逆風満帆」「頭は使え、気は使うな」などの格言が刻まれた石彫があったり、大きな石でできたマッチ箱の隣には小さな本物のマッチ箱が添えられていたりと、建物の周囲は本物そっくりな石の彫刻があふれていた。以後、何度も訪問させていただき、様々な展覧会で小川さんの作品を紹介させて頂いてきた。

 1921(大正11)年1月1日生まれの小川さんは、小さい頃から絵が好きだったが、絵の道に進むことはなく、第2次世界大戦中は満州で従軍した。

 「航空隊におるときに事務官をしよってね、故障機のプロペラが曲がったりしたのを、当時は写真が撮れんけぇ、描くわけよ。あの頃じゃけぇガリ版よね。それを日本の本部へ送っとった」。

 満州で終戦を迎え、尾道へ帰還したのは24歳のとき。小川さんは戦前から働いていた繊維工場で再び働き始めたが、10年ほど経ったときに会社が倒産。そこで退職金を使って、自宅の隣に布団を製造する繊維工場をみずから設立したというわけだ。仕事の合間に、簡素だった仕事場の繊維壁にコテで色を付け始めたことが、晩年に絵を描き始めることにつながったようだ。定年退職後からは、山歩きをしたり東洋医学の体操である「健康体操」を尾道に広めるために尽力し「尾道健康体操協会」をつくったりもした。その後は、大好きな絵を本格的に描くため、尾道美術研究所に入会。

 「研究所におったときは、協会の先生に教えてもらいながら、鳥取の大山に登って風景画を描いたり、ヌードモデルを呼んで裸婦画を描いたりしとった。大山の絵はよう褒められたなぁ。3年ほど通うて、先生から推薦を貰ろうて尾道美術協会へ所属したんよ。プロの画家に混じって絵を描いとったけど、一番ビリなほうじゃったなぁ」。

小川卓一

​ 美術協会では事務局長を務めていたが、90歳になり「もういいか」と退会し、以後はひとりっきりで制作を続けてきた。お話を伺った部屋には、これまで描いてきた油彩画や水彩画などテーマや素材の異なる絵画が並び、どれだけ貪欲に絵を描いてきたのかが推測できる。そして、80歳を過ぎてから始めたのが、本物そっくりの食べ物や人体などをテーマにした石を使った造形物の制作だ。

 島根県松江市にある「来待ストーンミュージアム」を家族と訪問した際、柔らかく加工しやすい来待石の存在を知った。以後、毎年重さ50キロほどの石を軽トラックに積んで帰っては、ユニークなかたちに彫り続けた。小川さんの作品は、掛けていた眼鏡を石でつくった自画像にはめ込んだり、履いていたズボンを石でつくった足に履かせたり、水を入れると石の窪んだところが海のようになって日本列島が浮かび上がってきたりなど、高齢になってからつくり始めたとは思えないような柔軟な表現ばかりだ。館内にも、有名人の肖像を描いた皿があったりブラウン管テレビのなかには直角に曲げた筆で風景画を描いたりと多彩な表現があふれている。

ふりむき館に並べられた作品群

 その多くは廃材を利用しているが、「どれでも好きなもん持って帰れ」と生み出した作品に執着はないようだ。世間からの評価にとらわれることなく、ただ純粋に表現することを楽しんでいるように思えた。僕が最初に「展覧会に出展してください」と打診したとき、「尾道美術協会の人たちに悪いからなぁ」と小川さんはなかなか首を縦には振ってくれなかった。それでも諦めず声を掛け続けた結果、最後は「じいちゃん、気にせんでも大丈夫よ」という娘さんの一声で出展してもらうことができた。展覧会では多くの人たちから注目を集め、小川さんも家族を連れて観に来てくれたけれど、たくさんの人の目に触れることが小川さんのつくる喜びを奪うことにつながってはいないだろうかと僕はいつも気になっていた。

屋外にも作品があふれていた

 2019年春に東京のギャラリー・アーモで開催した僕の大規模な展覧会には、観に行くことができなくなっていた小川さんの代わりに、娘さんがはるばる広島から観に来てくれたこともあった。館外に設置した多量の石彫作品には経年変化による退色が見られたが、当時98歳だった小川さんは、手の震えなどがあるため、みずからが望む作品制作は困難と考え、新作の制作や過去作の修復などは一切行ってはいなかった。そして昨年11月7日、小川さんは99歳でこの世を去った。享年99歳、100歳間近だった。

小川卓一

「櫛野さんが書いてくれた記事や本を、じいちゃんはデイサービスにいつも持って行って自慢してたんです。だから出棺のときに全部入れさせてもらいました。本当にありがとうございます」。

 娘さんからそう言われたけれど、お礼を言わなければならないのは僕のほうだ。高齢になっても、勢いを失わない小川さんの姿は、表現することの楽しさと同時に肯定的に「老い」と向き合うことを教えてくれた。聞けば、「ふりむき館」という名は近所の人たちに名前を募集して付けてもらったというから、この場所がどれだけ地元の人に愛されていたかが分かる。つくり手の居なくなった館は、これからどうなっていくのだろうか。

編集部

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