2021.5.31

「アーティストには、絶対に忘れてはならないことがあります。社会に対しての責任です」。インタビュー:デイヴィッド・シュリグリー

雑誌『美術手帖』の貴重なバックナンバー記事を公開。本記事では、2018年に行われたデイヴィッド・シュリグリーのインタビューを公開。社会風刺やブラックユーモアを織り込み、ドローイング、アニメーション映像、剥製の彫刻作品といった幅広いスタイルで表現する作家の言葉を紹介する。

聞き手=清水知子

水戸芸術館現代美術ギャラリーにて
撮影=江崎愛
前へ
次へ

いまの時代だからこそ、これまで以上に風刺やコメディーが重要だと考えています。

 日常の場面や身近なものを題材にした、誰もがクスリと笑える作品。現代美術の分野で高く評価されるいっぽう、マンガやアニメなどの大衆文化においても人気を誇る作家に、英国らしいウィットに富んだユーモアと、アートとして表現することへの思いを聞いた。

水戸芸術館現代美術ギャラリーでの「ルーズ・ユア・マインド」展展示風景より。最初の展示室では、ステューシー、ユニクロなど複数のアパレルメーカーによってこれまでに商品化されたTシャツ(2004-)とドローイング(2004-)がインスタレーション形
式で展示されている

自分はアーティストだと言うのが精一杯

──まずはグラスゴーのアートスクール時代の話からお聞かせいただけますか。

シュリグリー 1988年にグラスゴーの美術学校に進みました。当時、私が興味を持っていたのは具象の絵画、例えばバスキアなどでした。それ以外に新表現主義(ネオ・エクスプレッショニズム)(*1)のゲオルグ・バゼリッツやジュリアン・シュナーベルのようなペインティングにも興味を持っていました。19歳の頃のことです。

 91年に卒業したとき、前例になるようなプロのアーティストはいませんでした。ですから、いまの自分のようなアーティストになるとは思ってもいませんでした。そこで、アーティスト以外の仕事が必要だと思って選んだのがカートゥーニストとしての道です。この場合のカートゥーンというのは新聞に掲載されるようなものです。当時はゲイリー・ラーソン(*2)が大人気でした。自分にもできるかもしれないと思ったのです。とはいえ、カートゥーン自体に興味があったわけでも、マンガが好きだったわけでもなく、これもひとつの可能性としてあるかな、くらいに思ってました。私にとってのヒーローはマルセル・デュシャンとアンディ・ウォーホルであって、ラーソンではなかった。そういうわけで、ドローイングやカートゥーンにキャプションを付けたものを作成しました。カートゥーニストとしての可能性を皆に紹介するためのプロモーションだったんです。けれども、この試みは見事に失敗します。新聞に載せてくれるような人はいませんでした。ただひとつ気づいたのは、本づくりがとても面白いということ。グラフィックにテキストを組み合わせていく過程で出てくるボキャブラリーがとても興味深く、私はそこに惹かれていました。そしてもうひとつ気付いたのは、これなら自宅でもできる、わざわざ大きなスタジオを構える必要もない、ということです。それからは本づくりのほうにますます関心を傾けるようになりました。とはいえ、誰かが欲しがるものでもなかったので、自分のカートゥーンを売り込むツールとしてではなく、本づくりそのものに対する関心から取り組んでいました。

水戸芸術館現代美術ギャラリーでの「ルーズ・ユア・マインド」展展示風景より。《展覧会》(2015-)、《死の門》(2009)の展示風景

 並行してギャラリー監視員としてのパートタイムや設営の仕事もしていました。いまならアートハンドラーと呼ばれるものです。地域で社会人向けに美術を教えたり、映画やテレビ番組のエキストラをやったりしました。『トレインスポッティング』(1996)のエキストラもしました。グラスゴーの市民全員がこの映画に関わったんですよね。

 彫刻をつくったり、屋外に設置した作品の写真を撮ったりもしていましたが、その間もずっと本づくりは続けていました。ただ、自分が描いてきたドローイングが、ギャラリーで展示されるアート作品になるとは思ってもいませんでした。95年に『フリーズ』誌の表紙に使われて初めて、自分のドローイングをアートとして展示し、アートとして見せるようになりました。

──それは、アートに対する認識の変化とも関わってきますね。シュリグリーさんには「アート」や「アーティスト」に関する作品がいくつもあります。《アーティスト》(2014)やアニメーション《アートについての重要なお知らせ》(2010)もそうですね。