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ポストコロナに向けた往復書簡(2):長谷川祐子から落合陽一さんへ

メディアアーティスト・落合陽一がポストコロナに向けて様々なプロフェッショナルと交わす往復書簡。第一弾は、キュレーターの長谷川祐子との往復書簡をお届けする。

長谷川祐子

落合さん

 最初のお便り拝受しました。

 オラファー展会期中、お訪ねいただき、いろいろお話しできる機会をもてたこと、とてもよかったです。おかげさまで、多くの若者を含め13万人の来館者をおむかえできました。10月になり、感染者数の発表に一喜一憂することも日常化し、最近ではトランプ大統領自身の感染報道や、インドでじつは公式発表数の10倍の6000万人が感染しているというニュースに、世界は壮大なコロナシアターになっているのかの印象を抱いています。

 未来はあまりにも不確かで見えないので、とりあえず現在の積み重ね、連続の先に未来というぼんやりとした灯のようなものをたどろうとしているのが現在だと思います。そこにときおり、砂金のようにガラス玉のように「未来」の断片をみつけたりするのでしょう。

 ポストコロナ、「これから本」や言説が氾濫している中で、落合さんのNHKのズームバックはとても面白く拝見しました。あの70年代SF映画のお手製感あふれるコクピットのようなご自宅の空間にいる落合さんは、自信たっぷりに指示や命令をだすのでなく、目前で遭難しかかっている自分の(宇宙)船を、なんとか操舵するために何でもできることからやってみる、過去データをひもといてヒントをさがしている、「まごつき期」の若いキャプテンのようにみえました。落合さんがキーワードをドローイングのように画面に描いていくダイヤグラムは、軽快なパフォーマテイビテイで見るものを自在な解釈に誘導していく感じがよかったです。オンラインでのコミュニケーションのためのパフォーマテイビテイ。

 コロナをきっかけに、経済や政治、人々は身体や心理、社会の関係の変化を余儀なくされています。私自身、今年海外で予定されていた2つの展覧会は来年に延期され、未だ安全な時期設定ができないため、保留のままのものもあります。去年など年3分の1くらいはキュレーションの仕事で海外にいたので、この列島のペリメーターから出られない状況は大きな変化でした。良いことは身の回りのことに気遣うようになったこと。季節の変化を感じ、自宅の空間を見直し、丁寧な掃除や生け花を通して、ミクロな環境に感覚をとぎすますようになったことです。困ったことは、キュレーションの仕事の本質であるリサーチー作品の実見や作家のスタジオ訪問などができなくなったことです。オンラインで作品を判断することは、シングルスクリーンの映像やアーカイブ型の作品以外不可能です。落合さんのミクストメデイアの作品もオンラインでは判断できません。キュレーターの目は身体感覚と直結しているので、それが鈍化しないように見られる展覧会は古典、メデイアをとわず、なんでもせっせと観にいくようにしています。一番きびしいのは、会話や議論の多様性、多元性が減ってしまったことです。日本は突出した個性が生きづらい場所であり、同調圧力の強い国です。私はプロジェクトによって実質的な多拠点生活をすることでバランスをとってきたので、知的コンテンツや感情は伝えられても直観や感性のレゾナンスまでは難しいオンラインでの会話では、とても閉塞感があります。偶然の出会いやインスピレーションや閃きの到来がない、すべてセットされた時間にしか起こらない、あいての「気」や「アウラ」が伝わらない平板な時空間。

 ミクロ環境とインターネット劇場で展開されるマクロ環境、そしてその中間の不完全なソーシャル空間。今までストリートや美術館、コンサート会場など、アートと出会ったり共感したりするのはこの中間のソーシャル空間でした。ミクロ(実体的な身近な知覚体験:自分の周辺)とマクロ(デジタル:グローバルネットワーク)の環境の交錯的、複合的な活用によって、この中間のソーシャル空間に代替するものをさがさなくてはなりません。とくにアート体験とは、作品と観客の間で起こるレゾナンスであり、コ・プロダクションの過程です。芸大の授業も講義はオンラインでできますが、展覧会ゼミでの、作品の前で意見交換したり、模型による空間シミュレーションは対面でなければできません。今年に予定していたゼミ展覧会は、途中でオンラインにきりかえざるをえませんでした。デジタルネイテイブの学生たちにとってプログラマーとの協働はそれほど抵抗はなかったようです。ただキュレーターの卵の彼らにとって、生まれて初めて企画した展覧会がオンラインだったということなのです。ではそこででてくる新しいキュレーションの可能性、新しい共感の場づくりの可能性はどこにあるのかを目下考えています。

 メデイアの進歩は私たちの知覚を拡張してきました。インターネットは世界と瞬時につながれる状況を可能にしています。アートとは知覚の訓練であり、所与のメデイア環境を活かしつつ知覚したものを、知性や感性に成長させ蓄積する連続的なプラクテイスでもあります。私のようにデジタルネイテイブでない世代の人間にとって、デジタル世界での身体感をもっていないことはとてもリアルです。ですが、落合さんのようなデジタルネイテイブの人たちの身体的リアルは本当にデジタル世界のそれなのでしょうか?高速で変化する時代、高解像で膨大な情報やデータにさらされた環境で、若い世代が現実の空洞化の不安を感じているのは、デジタルの「リアル」というものの錯誤、ズレからきているからではないでしょうか?コロナ状況に入り、私はキュレーションを通して、リアルとデジタルの間のコモンズ(入会地)をつくることの緊急性をより強く感じています。落合さんの「未知への追憶」で見られたデジタルアートの物質的記憶への刻印、物質的持続性への関心と試みは同じ動機に基づいているのではないかと思いました。

 落合さんからお尋ねのあった、美術館の立ち位置の変化について私が考えていることは、この複合的なコモンズを、新しいタイプのプラットフォームとして発展させられないかとおうことです。皆が共有できる空間の祝祭性は、「共感」、生の豊かさの実感につながっています。個々の作品体験は分散した小空間で内省的にじっくりと鑑賞し、共感のプラットフォームを、オンラインとオフラインの複合空間を工夫することで作れないでしょうか?オラファー・エリアソン展は大型新作も含めて全部リモートで設置しました。これを可能にしたのは正確な指示書と、キュレーターや制作スタッフの経験と記憶、そして作家との信頼関係―つまり共感でした。多様な表現や個性がつどい、さまざまな思考やアイデア、ネットワークが生まれる祝祭としてのビエンナーレも大きな岐路をむかえています。祝祭空間はどこにいくのか?

 私がコンセプトから立ち上げた金沢21世紀美術館の空間レイアウトは、不思議とこの時代の必要性に答えている気がします。おまけに美術館を中心に種がスピンアウトしたかように街なかに小さな画廊が30余も出現しました。プライベートとパブリックの関係のチューニングは分散、ソーシャルデイスタンスという言葉に後押しされつつ、もっと洗練された方法がみつかるかもしれません。

 おもっていることをとりとめもなく書いてしまいました。今タイで準備しているビエンナーレ(来年開催)は「新しい資本について考える」がテーマです。ポスト資本主義や経済のしくみのこと、ビジネスマンの方々が関心をもっている「情報と感情」の関係を落合さんがどうかんがえていらっしゃるか、聞かせてください。

長谷川祐子

編集部

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