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ポストコロナに向けた往復書簡(1):落合陽一から長谷川先生へ

メディアアーティスト・落合陽一がポストコロナに向けて様々なプロフェッショナルと交わす往復書簡。第一弾は、キュレーターの長谷川祐子との往復書簡をお届けする。

落合陽一 未知への追憶

長谷川先生

 ご連絡遅れてすみません,お待たせしておりました.僕自身,この「往復書簡」を楽しみにしていました.こうやって筆をとることは人生の喜びのひとつでもあります.

 さて,なぜこの往復書簡を始めようと思ったのかといえば,コロナ禍を迎え,周りのアーティストや美術関係者と話すうちに,「ポストコロナのアートを考えてこう」と思いたちました.どういった方法があると考えた末に,公開書簡で対話をしながらブレインストーミングをしていこうというアイデアにたどり着きました.なぜなら,今後のあり方をどうやって考えていくのかという過程そのものを残していくのも過渡期の価値だと考えたからです.また対話によって生まれる思考の変遷を残していくというのもアーカイブとして面白いと考えました.そういった議論に多くの人が参加してくれればいいなと思ったのも理由のひとつです.

 このアイデアに出会ったときに思いたった人が長谷川先生でした.先日まで一緒にプロジェクトをさせていただいていたこともあり,コロナ禍でオリンピック・パラリンピックを含めた2020年の状況が変わってしまったなか,ブレインストーミングするお相手として,僭越ながら様々なご意見を聞いてみたいと考えたからです.とくに先日,東京都現代美術館で行われたダムタイプ展やオラファーエリアソン展を拝見させていただいて,アートはそして自分の関わるメディア・アートはどうやってこの状況を乗り切っていくのか,そして変化していくのか,というような視座や,持続可能性・自然との共生という考え方のなかでアートはどういう価値を提供するのかといった視座をまさに今語り合う必要性を感じたからです.

 なかなかに「どの時期に連載を始め,ポストコロナを考えていくべきか」ということを思い巡らすうちに,思いたった夏が過ぎ,秋の気配を感じる気候になりました.しかしながら,夏前に書いていたら,あまりに悲観的すぎる未来予測や荒唐無稽のSFのような考え方になりかねなかったとも思っています.いま,こうやって文をしたためている時候は,冷静にコロナ禍を振り返り,世の中の変化を考え,次代を占いつつ,手を動かしていくには良いタイミングであるように思えます.一部では国境を跨ぐ移動の再開も議論され始めてきましたし,中長期の影響について議論するためのデータも集まりつつあります.

 僕はメディア・アーティストとして,そして研究者として活動してきましたが,確かにコロナ禍で多くのものが変わりました.制作に関する議論も,そして研究に関する議論も多くの前提が変わり,数ヶ月の間,しばらくこの新常態について考えることに時間を費やしていました.なぜなら人とコンピュータの関わりを研究する上で,関わり方が抜本的に変わる可能性のある領域に自分が属しているからです.とくに大きいのは,対面型で,物理的に,よりリッチなコミュニケーションを取るために使ってきたデジタル技術やミディウムに関する使途や方法論が変わったというところかもしれません.物理的に同じ空間を共有し,より臨場感のある”Immersive”な体験を届けるための議論が変化したように感じています.

 AI関連のIoT技術の手法論,3DプリンタやVR,立体ディスプレイやコンピュータビジョンなど,僕が研究する多くの技術に関する視点は変化しましたし,ニーズも変わりました.また作家として扱うミディウムも意味合いが変化していることを実感しています.コンピュータグラフィクスは「計算機的な文脈を持つ質量のない絵画性」といった意味合い以上により「万物の表現のインフラ」に近づいていますし,ゲームエンジンは新しい世界インフラを作るためのコモングラウンド(共通基盤)に近づいています.スマートシティ論は「夢いっぱいの未来都市」から「都市の事業継続性を保証するためのIoT施策」に近づき,感染情報と人が紐づくとともに,社会保障のための給付の面でも,産業振興のための施策の意味でも個人とデータの紐付きに関する議論が盛んに行われるようになりました.社会の全体論だけでなく,個人の生活としての生活習慣の変化も顕著だと思います.

 ここで手触り感のある自分の日常の例も同時に考えてみることにします.

 例えば大学教員としては,日常生活でも授業はオンラインで行うことが増え,国際会議や学会もオンラインのセッションで参加するのみになりました.研究室を主宰する筑波大では研究室のゼミはオンラインへ移行し,授業もほぼオンラインになっています.また客員教授を務めている2箇所の美大でもオンラインの授業が決まっています.久しぶりに対面の授業とオンラインを並行して行ったのは特任教授を務めているデジタルハリウッド大のメディアアートの授業でした.1年生の学生さんは僕の授業が初めて大学のキャンパスに入った機会だったという人もいました.なるほど,いままですべてオンラインで講義されてきたことの弊害とは,そういう対面での連帯感の欠如など様々な影響があるのだなと実感しました.自分の授業はメディアアート作品の制作を行う授業で,「解像度」の議論や「ミディウムの選択」の議論や「身体性」の議論を行うにはやはり対面型の授業の意味を感じました.

 またメディア・アーティストとしては,渋谷にて個展「未知への追憶」を7月から9月までの2ヶ月間開催させていただいていました.いつもの個展とは異なり,オンラインのギャラリーツアーと物理的な開催を並行したり,レセプションは密にならないように配慮するなど多くの仕様が変わったように感じています.風の通り道を確保したり,いつもなら暗幕で仕切ったりするような場所もあえて空気の流れを作るなどの配慮が必要になりました.特別な仕掛けを用意するメディア・アートには制約が生まれる場所もあるのだろうと感じています.現場の展示を行いながら感じたことは,やはりオンラインコミュニケーションを主軸とした生活のなかで「現場で感じられる解像度を大切にすること」や,「身体性がもたらす予期せぬ発見に身体を澄ますこと」などに鑑賞者の注目が集まっているように感じました.このデジタルに慣れ親しんだ故の身体性への感覚を以前「質量への憧憬」と表現しましたが,手触り感や所有感など,アートとの関係性が公共的に展示されて共有されうるものから,ある種の「民藝的な価値」に近づいている感じもします.これは現代アートをされている方で言えば「販売ギャラリー的な見せ方の話」ともいい得るのかもしれませんが,物理的なギャラリーでの販売実績の減少が起こっていますし,違った価値の見出され方をしていくのではないかと考えています.こと自分がやっているメディアアートの文脈では,体験価値を集団で共有するための大掛かりな仕掛けの維持やそのマネタイズは集客面・コスト面で難しくなってきている実感があります.

 大きなインスタレーションを共有するような体験は素晴らしいものですが,所有可能なサイズの作品を家に飾り,とっておきを楽しみながら少人数でその価値を愛でるようなアートとの関わり方(個展的な鑑賞法)にシフトする期間が生まれるのではないかと最近では思っています.渡航の厳しさや集団で熱気を共有する体験の厳しさから,少人数の時間をより豊かにするための芸術というあり方に戻る,つまり個展的な芸術との関係性に近づく期間が生まれるのではないかと考えています.僕は以前より「メディア・アート」を「デジタルネイチャー時代のバナキュラー」だと考えていて,より盆栽や装花や鹿威しや掛け軸のようなメディアアートを探究したりもして,そのうえでの自然との関わりや批評性を探究しています.盆栽や装花,そういった方向性の生存か,オンライン移行での新しい体験価値の探究のような方向性の生存でしか,新常態のメディア・アートは生き残りづらいのではないかと考えています.

 そのなかで美術館の立ち位置はどう変わっていくのかに興味があります.上に挙げた民藝性,ハブとしての美術館,市民参加型の拠点としての美術館,アートを感じる上でのオープンなプラットフォーム(誰でも参加でき意思決定に参加できる場所)に展望していくのではないかというちょっと誇大な妄想も持ち合わせていたりもします.

 近頃,再開した美術館やらギャラリーやらの様々なレセプションに参加しながら,芸術作品が展示される空間の封切りにまつわる「祝祭性」とはなんだろうかということを考えています.予約してソーシャルディスタンスを保ちながら見る美術作品とは,静的な対話性を構築することができるという意味で,非常に楽しんでいる反面,人の多さや時代の中での高揚感から来る祝祭性という面は失われつつあるあるのかなと考えてもいます.

 様々なお話が行ったり来たりしてしまいましたが,自由なご意見ご感想,ご返信をお待ちしています.コロナ禍ですが,どうか健康にお気をつけて.

落合陽一

 

編集部

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