何采柔(ジョイス・ホー) 居心地の悪さと美しさのあいだで揺らぐ日常
連載第1回で示した台湾の現代美術の現状を読み解くための「クロスオーバー」というキーワードだが、何采柔(ジョイス・ホー)はまさにそれを体現するひとりだ。1983年台湾生まれ。2007年にカリフォルニア大学アーヴァイン校で国際研究を修めた後、2010年にアイオワ大学で絵画の修士課程を修了した何の表現手段は多岐にわたり、前衛演劇の分野でも舞台美術や衣装、監督としての顔を持つ。台北を訪れたことがあれば、台北駅の地下街に突如現れるシュールな「鳥人間」(黄色い鳥の頭にツルっと白い少女の身体を持つオブジェ)にギョッとした人も多いのではないだろうか? じつはこのパブリックアート《夢遊/Daydream》は何が参加する劇団「河床劇団」のアート・ディレクターである郭文泰(クレイグ・キンテロ)との共同作品である。
繊細で洗練された美しい造形に、どこか奇妙で居心地の悪い劇場的な時空を持たせる何は、台湾、マイアミ、オーストラリア等での個展のほか、上海、北京、アメリカ、イタリアなど世界各地のグループ展への参加を重ね、2018年には「第9回現代美術アジア・パシフィック・トリエンナーレ」(APT9)に招かれた。会場となるオーストラリア・ブリスベンのクイーンズランド州立美術館/近代美術館はアジア太平洋地域の現代美術に包括的にフォーカスしてきた英語圏で数少ない美術館で、アジア出身のアーティストにとってAPT参加の意味合いは大きい。日本では、鹿児島県の「霧島アートの森」で1人目のレジデンス・アーティストにも選ばれている。許家維(シュウ・ジャウェイ)、王虹凱(ワン・ホンカイ)らとともに、台湾現代美術界において大きな注目を集めるアーティストだと言えるだろう。
「ヨコハマトリエンナーレ2020」出品作の《バランシング・アクトIII》は、長さ20mを超えるフェンスの足をアーチ状につくり、ロッキングチェアのように揺れるよう設計した作品だ。鑑賞者はフェンスを通らなければ、その先の展示エリアに至ることができない。フェンスという構造物が併せ持つ「内側」と「外側」、もしくは「守られる」「閉じ込められる」といった異なる性質が、揺らぎのために鑑賞者の身体を行き来し、その情緒に不安定さを生み出す。「バランシング・アクト」という言葉には、“バランスを取って行動すること”と“トレードオフ/両立”という2つの意味があると、作家は説明している。
とりわけ筆者は、コロナ渦中で開催されている本展で今作が見られることに、運命的なものを感じた。コロナ禍で露わとなった公衆衛生という難しいバランスの問題を想起させるからだ。
台湾では、感染者・隔離者への法律的な規制と徹底した対策がかえって心理的な自由や信頼感を社会にもたらす効果があった。いっぽうで、人権やプライバシーを守るため対策を自主性に任せた日本では、「自粛警察」と呼ばれる相互監視的な現象も見られた。グローバリズムによって世界中で次々と問題が起こるなか、国家や法律・監視システムは何を守り、何を侵し、いかなる不自由をつくり出すのか? 効率や公益に対して、プライバシー や人権のバランスはどのように取るべきか? それぞれの社会や状況をつねに考え、諦めることなく、最適の「バランシング・アクト」を求め続けることができるか? このような思考をコロナ禍は私たちの社会に迫り続けてくる。
作家は今回のコロナ禍とアートの関わりについて、自分にこう問うている。「この半年間、私たちは“超現実的な事態”を生活の一部として少しずつ受け入れ、あらゆる状況に立ち向かうための不慣れな学習を幾度となく強いられてきました。このような時代に、一作家がアートを介して出口を見いだす、もしくは創造することは可能なのか?」
──答えはまさに何の作品にあるだろう。アートとはあらゆることが起こりうる現実世界を前に、「不慣れな学習」を繰り返すための想像の訓練である。「バランシング・アクト」とは、現代の不安に向き合って想像力と感受性を研ぎ澄ませ、ともに揺らぎ、未来からの暴力的な挑戦に抗うための装置なのかもしれない。
張徐展(ジャンシュウ・ジャン) 細部に宿り共鳴するアジアの物語
台湾の紙工芸(“紙紮”“糊紙”とも)は、華人の祭礼文化とともに独特の進化を遂げたが、もともとは古代中国で死者を埋葬する際に陶器でつくられた「俑」と呼ばれる副葬品が起源と言われ、兵馬をかたどった「兵馬俑」もそのひとつである。いつの頃よりか副葬する陶器は紙に変化し、「使用人」「家」「乗り物」「衣服」「日用品」「お金」を模した紙工芸を燃やすことで、あの世の死者が豊かで不自由なく暮らせ、現世の子孫らに発展と幸福をもたらしてくれると信じられてきた。そのため、冥土用の紙の工芸品はより精緻により豪華になり、現代になると西洋の城のような邸宅からレクサス、ベンツなどの高級車、パソコン、スマートフォンやその充電器を模したものまであるという凝りようだ。
張徐展(ジャンシュウ・ジャン)は1988年台北郊外の新荘生まれ。生家は祭礼用の紙工芸を120年にわたって営む老舗で、張徐が幼い頃から慣れ親しんできた家業と、ストップモーション・アニメーションやインスタレーションといった自らの創作とを融合させた作品づくりをしている。
2016年に国立台北芸術大学のニュー・メディア・アートの修士課程を修了し、国立台湾美術館や台北で個展を開催、各国の短編動画を扱う映画祭に出品。台湾の葬儀で死者に寄り添う「シ・ソ・ミ」と呼ばれる音楽隊をモチーフにしたアニメーション《Si So Mi》は、2018年には華人世界のアカデミー賞と言われる第55回金馬獎にもノミネートされた。家業の技術に裏付けられたパペットや精緻な小動物を模した人形たちが繰り広げる張徐展の世界観は、その“キモ可愛さ”と“死の匂い”において、アジアにおけるヤン・シュヴァンクマイエルの後継者とでも呼びたくなるような、フォークロアでシュールな魅力に満ちている(じつはヤン・シュヴァンクマイエルも 、プラハの陳列窓をつくる職人の家の生まれである)。
「ヨコハマトリエンナーレ2020」に出品されている新作《動物故事》は、本展のアーティスティック・ディレクターであるラクス・メディア・コレクティヴによる「インドのあらゆる民話の起源はガンジス川からだ」との指摘からも着想を得て、インドネシアのレジデンスで発表した過去作を、「池や川の周辺」で起こった“アジアの物語”という枠組みに発展させたアニメーションである。インドネシアや中華圏のサウンド/舞踊様式を取り入れたという本作では、 世界各地に伝わる昔話を類型ごとに収集/分類した「アールネトンプソンのタイプインデックス」も参照しながら、アジアのフォークロアに見る類似と相違を探索している。
例えば日本の「浦島太郎」とベトナムの昔話「タンとチャウの物語」(原文:tự thuê gấp tiền)が同じような構造を持つように、台湾の民間伝承をはじめアジアの物語を分解して細部を見つめたとき、本質的なところで世界性(worldliness)をもってつながることに興味を覚えたという張徐。さまよえる魂が地獄より戻ってくる「鬼月」の施餓鬼など、「死」の世界に対してつねに想像力を働かせている台湾社会や民俗風習は「生」をより強烈に照らし出す。その細部を支える繊細な生業のそばで成長し、グローバルに通底する大きな「物語」を見いだした作家は、グローバル社会が呼び寄せたコロナ禍で世界が一層ローカルを見つめるようになったいま、よりエネルギーを持って共鳴を始めるのである。