津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』 人間の大地から ミヤギフトシ
4月末、網走を訪ねた。初めての北海道、札幌に一泊し、翌朝陸路で網走へと向かう。寄り道しながら北へと進み何時間も経過した後、目の前にオホーツク海が開けた。僕がこれまで見てきた海よりも重い色をしているように感じる。波は穏やかだった。それから2〜3時間ほどで網走に着いた。夜になっていた。
網走は、『すばる』で連載されていた津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社、2016年)を読んで以来ずっと来てみたかった場所。かつて網走にあった北方少数民族ウィルタの資料館「ジャッカ・ドフニ」がもう存在しないらしいことは事前に知っていた。
『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』において、息子のダアを事故で亡くした「わたし」は、かつて息子と過ごした網走での数日のこと、そこで出会ったジャッカ・ドフニ館長のゲンダーヌさんと過ごしたひとときを回想する。ダアが事故で死んでしまい、どれだけの年月が過ぎようとも「わたし」は後悔し続けている。あのとき、なぜあの子をひとりにしてしまったのか、と。年老いた「わたし」は網走を再び訪ね、過去の「わたし」に「あなた」と語りかけながら、懺悔するかのように記憶を紐解き、ダアと過ごした日々、そして自らの人生を振り返る。
「わたし」の物語と交互するように、北海道でアイヌ人の母親と日本人の父親の間、おそらく望まれない一時的な関係によって生を受けた少女チカップの物語が語られる。幼かった彼女は自らの過去についてほとんど覚えていない。物心ついた頃には軽業一座に売り渡され、その姿を見て不憫に思ったパードレ(神父)に引き取られ、隠れキリシタンの一団と旅を始めた。旅の途中で敬虔なキリシタンの少年ジュリアンも加わり、チカップは兄のように彼を慕う。キリスト教弾圧が日に日に強まる17世紀頃の日本で、船で土地から土地へと隠れて移動を繰り返し、時に嵐にもまれ、時に穏やかな波にゆられるなかで、チカ(ジュリアンをはじめ旅の同行者はチカップをそう呼んだ)は母親が歌い聞かせてくれたらしいアイヌの歌を思い出しはじめる。そしてジュリアンとチカは旅中、彼女の出生の物語を、いくつかの手がかりと想像をもとに一緒に作りあげる。その捏造された記憶を支えに、彼女は自らのアイヌ民族としてのアイデンティティを守り抜くことになる。弾圧は激しさを増し、残忍な手法で執り行われるキリシタンへの拷問による殉教者も増えてゆく。チカとジュリアンを含む一行はポルトガル領だったマカオへの移住を決める。ジュリアンをマカオのコレジヨ(大神学校)に入学させ日本人パードレになってもらう、という目的もあった。当時のマカオには天正遣欧少年使節のひとり、原マルティノがいた。原は織田信長の時代にローマに渡ったものの、日本に戻った頃には時代が変わり豊臣秀吉によるバテレン(=パードレ、神父)追放令が出されていた。国を追われた原はマカオでの暮らしを余儀なくされていた。
長い船旅の末にマカオに着いて、数年後。ジュリアンはセミナリヨ(小神学校)を間もなく卒業、コレジヨに進むべく勉強に追われ、チカと会うこともほとんどなくなってしまう。チカは洗濯女として働いていた。いつも、歌を歌いながら。教会の多いマカオで、彼らはどんな音楽を聴いたのだろう。どんな賛美歌が、どんな楽器が鳴らされていたのだろう。「四人(筆者注:天正遣欧少年使節)のきらびやかなミヤコでの行進はいまから三十年もむかしの話」と、作中あるパードレが言う。使節が日本に戻り、秀吉に謁見したのは1591年。ならば、物語においてチカとジュリアンがマカオに渡ったのは1620年ごろ。後期ルネサンス音楽として親しまれている当時の宗教音楽も、彼らは耳にしていたのだろうか? モンテヴェルディ、ビクトリア、バード......。そんな想像に囚われ、フィクションであることを思い出して、頭を振った(原や使節の話は真実でも、チカとジュリアンの物語はフィクションだ)。それでも、音楽が想起されることでその時代がぐっと近く感じられ、その時代に日本で起こっていた暴力にぞっとする。400年。そんな時間の巡りのなかで、弾圧が、暴虐が繰り返されてきた。
網走滞在2日目はまず北方民族博物館に向かった。アイヌやサハリンの民族をはじめ、北欧やグリーンランドの民族文化も紹介する充実した展示をゆっくりと回る。ところどころに、ウィルタにまつわる品々も展示されていて、とくに彼らが作っていた木偶、セワポロロに惹かれ、しばらくそれらの少しとぼけた、穏やかな表情を見比べていた。展示を見たあと、博物館でジャッカ・ドフニのあった場所を聞く。グーグルマップで検索するとただの住宅地でそんな場所にあったのだろうかと不安に思いながら、車で向かう。見当をつけた網走川沿いの空き地に車をとめると、「資料館ジャッカ・ドフニ入口」という少し傾いた、見落としてしまいそうな丸太の看板が目に入った。その存在はあまりにも唐突であっけなくて、驚く。しかし、空き地にはかつてあった丸太小屋の資料館や、その手前にあったという円錐形のテントのようなカウラの存在を示すものは何もない。
「わたし」とダアは、かつてそこにあった、ウィルタ族の夏の家であるカウラ(津島は「ジャッカ・ドフニ 夏の家」(『現代小説クロニクル 1985〜1989』[講談社、2015年]所収))という短編も過去に書いている)の前で写真を撮ろうとし、ゲンダーヌさんが気を利かせてシャッターを切る。その写真が、ダアの遺影となる。ジャッカ・ドフニ、ウィルタの言葉で「大切なものを収める家」。空き地をあとにして、近くの天都山にあるという石碑へと向かった。網走湖を望む高台、廃業した民宿脇の静かな林の中、「静眠」、と刻まれた合同慰霊碑キリシエ。「少数民族ウイルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑」、とある。ゲンダーヌさんをはじめとした有志で資金を集め、建てたという。忘れられないように、と建てられた石碑は、誰もいない林の中で静かに佇んでいた。せめてこれだけは残っていてほしい、と切に願う。
3日目は、季節外れの吹雪となった。冬季閉鎖されていた知床横断道路が1日前に開通したというのにすぐにまた閉鎖されてしまったため、南側から遠回りの経路で羅臼に向かった。海の向こうに北方領土が見えるはずだけれど、羅臼から臨む海はどんよりとした雲と雪に遮られ、何も見えない。鳥たちが、強風の中で舞っていた。海を、鳥たちを、じっと定点で映像に撮る。鳥の数は増え続けて、よく見るとカモメ以外の鳥もいる。サギだろうか。カラス。白鳥もいる......? フレームの外、頭上を鷹が横切る。鳥たちの鳴き声に圧倒されながら、かじかむ手で横殴りの風で倒れそうになる三脚を支えていた。吹雪の中で切り上げどころがわからず途方にくれながら、「わたし」が北海道旅行中にダアに教えたという、鳥のカムイ・ユカラのことを僕は思い出した。行くな、騙され毒を盛られてしまうだけだから......と、死んで鳥になったアイヌの青年が上空から涙を落としながら、船に乗って日本人との交易に向かおうとする若い3きょうだいに伝えようとする悲しい歌。そして、ダアが生まれるずっと前、若い「わたし」が旅行中阿寒湖の土産屋でみつけた冊子にあった記述のことを。
「アイヌ」は人間という意味のアイヌ語です。日本人は隣人「シサム」と呼ばれます。 この美しいホッカイドウは、アイヌの土地、「アイヌ・モシリ」でした。 津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社、2016年)
それを読んで以降、「わたし」は道中同じ言葉をつぶやき続ける。「ここはアイヌ・モシリ、わたしはシサム、アイヌは人間、ここは人間の大地」、と。
人間の大地と、南の隣人日本人。そして、北のほうには、ウィルタやニブヒといったシベリアに住んでいた隣人たちもいる。ウィルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌは戦時中南サハリンで日本軍に偵察員として徴用される。戦後は戦犯としてシベリアに拘留され、引揚船に乗って日本にたどり着き、サハリンに帰ることもできず、網走に住むことを選択する。彼の他にも、戦後サハリンから網走に住み始めたウィルタの人々が一定数いた。ゲンダーヌは北川源太郎と名乗り、当初はウィルタであることを隠して生きていたという。しかし彼は、国へ軍人恩給の支給を訴え始める。当時のサハリンでは戸籍が整備されていなかった、正式の軍人ではなかった、という理由でその訴えを国は退けた。日本軍に従事し、10年近くシベリアに拘留されたにもかかわらず。彼が国に対峙するなか、ウィルタであることを隠して暮らしていた人々が彼から遠ざかってしまうこともあったようだ。
現在、網走にはウィルタの人々はいない「らしい」。実態がわからないそうで、もしかしたらいるかもしれないし、いないのかもしれないという状況になったという。東京に帰る日、駅近くの民芸品店を覗くと、博物館で見たセワポロロが並んでいた。聞くと、店主がウィルタの人から作り方を受け継ぎ、作り続けているという。
チカップは、アイヌ語で鳥を意味する。チカは自らの意思で旅を続け、バタビア、現在のジャカルタに行き着く。思い出したいくつものアイヌの歌は忘れていない。死産を何度か経験しながらも、彼女は4人の子どもを授かる。最後の子を彼女はトムと名付ける。ひかり、という意味らしい。そして、ジュリアンへ届くかもわからない手紙を送り続けている。彼女はひらがなを忘れてしまっているので、別の女性に手伝ってもらいながら。ジュリアンは日本に戻り、マルチリヨを遂げたかもしれない。彼女はそんなふうに想像する。それでも、ジュリアンに語りかけ続ける。彼女は、代わりに手紙を書く女性にこう漏らす。
ニホンにおっても、きりしたんはニホンの敵とみなされてきたんやもん。えぞ人もおんなじや。 敵や、敵や、言われつづけると、なにがなんでん、こっちもニホンをにくくおもわんけりゃならんちゅう気持になりそうやよ。まるで、子どものけんかのごたる。 チカさんとわたしはくすくす笑うてから、ながか息をもらしました。 津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(集英社、2016年)http://fmiyagi.com