鈴木俊晴 新人月評第3回 プラット、フラット、はねる、パネル 益永梢子個展「ルラン タット パダンパダン」
大阪の路地裏の屋根裏のような圧迫感のある空間で、頭を下げて床に膝をつき、「ちょっと雑だな」と思う。そう思っている自分の姿勢が、建物の空間に寄り添いながらはみ出しているこのパネル状の作品の真似をしているようで、どうにもおかしい。その幾何学的なパネルと布の組み合わせは、平面の布から立体的な衣服を立ち上げるパタンナーのしごとのようでもあり、だから、これらの平面とも立体とも言いかねる、しかしはっきりとレリーフではないなにかは、ちょうど平たい布でできた衣服をまとい、伸びたり屈んだりしながらある空間にいる私たちの姿そのものなのかとも連想は進む。
そのうちに、このパネルを伸ばしてみれば、それが一つの平面をなすだろうことに気がつく。ここをこうして、あそこをこうすれば......雑作もなくそれが平たくなったところを想像できる。なかにはそこからはみ出してしまうドレープや折れ目もあるようだけど、ともあれ正方形の平面が仮想的にできあがる。どうやらこの正方形は写真を撮るときのフレーミングのように事後的に与えられたもののようだ。
そこで「この蝶番隠せばいいのに」と思うということは、むしろそれはあえて見せているということだろう。とすれば、おそらく最初の印象の「雑さ」は見当違いで、とはいえ計算尽くのものでもなく、おそらくパネルとそれを包む布とが決まりきらないまま、持ち運んだり、折り曲げたりするなかで残ったシワやズレが、この作品において必然的なものとしてそのまま残されているということか。その甘めのエッジやドレープ状に重なった布は、展開や回転を予感させながら視線をにじりよせては、するっと次の面へと逸らそうとする。
仮想的なフレームを折りたたみ、いかにも衣服を思わせる素材の選択にズレや緩みをそのままに残すのには、少々突飛ながら、パネル作品の色味もあいまって山口薫を思い出す。この洋画家は「生活」の重要さを繰り返し説いたが、益永もまた、形式の重要さを理解しながらなお、一足とびにその理念へといたろうとするのではなく、身近なところからのアプローチを重視する画家の系譜に連なるだろう。
折ったり伸ばしたり、裏と表を、天と地を変えてみたり、覗き込む穴があったり、なかったり。それはタイルを用いた作品でも同様。この硬質の支持体の上で、鉛筆の線をその軌跡にアクリル絵具はめくれて反転、あたかもダンスをするかのように盛り上がっては跳ね上がり、その操作が積み重なれば面白いように手順は前後反転し、天地もわからないまま、無限の「パダンパダン」を繰り返す。
パネルそのものを「はねる」、あるいはパネルの上でもろもろが「はねる」、その無限の操作は終わることなくいつまでも続きそうで、だから壁面から浮き上がったプラットフォームはそれでいて仮想的な「平たいかたち」へと往還を繰り返す。「プ」と「フ」がいつまでたっても入れ替わり続け、「パ」が「は」になったり、その逆だったり。それは地と図の反転といった常套句に容易に回収されない。それはある時はある。ない時はない。
(『美術手帖』2016年6月号「REVIEWS09」より)
PROFILE
すずき・としはる 豊田市美術館学芸員。1982年生まれ。『疾駆/chic』にて「けわうもの|化粧と建築、あるいは絵画」を連載中。