椹木野衣 月評第99回 テーマパーク化する世界 「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展
一見しては、この作家ならではの、皮肉ともユーモアともつかぬ「たくらみ」としか呼びようがない。それくらい本展は、東京五輪を4年後に控え、総合開館20周年を記念して「TOP MUSEUM」を標榜し、さらなる飛躍と発展を期するリニューアル・オープンとなった開催館への、軽い悪意さえ感じさせる。なにせ、展覧会そのものの主題が「人類と文明が終焉」したあとの「風景」なのだ。始まりが早々に終わりでは、今後もなにも望みようがない。
会場の入り口に掲げられた主催者による挨拶文に「人類が人類を滅ぼしてしまわないよう、そして文明が遺物となってしまわないために、杉本博司の最新作と共にわたしたちの未来を再考する貴重な機会となれば幸いです」とあるのが、どこか痛々しくさえ感じられる。無理もない。めでたいはずの新装の門出が、まるで廃屋のような展示室から始まることになったのだ。
しかし他方、本展から私がもっとも強く感じ取ったのは、表層的な皮肉や悪意を超えてこの作家の内面へと波及せざるをえなかった、東日本大震災─とりわけ原発事故─をめぐる一種の心的外傷である。もとより杉本は、初期からの代表作「ジオラマ」「劇場」「海景」を通じて、人類の文明が及ばぬ「いにしえ」の時間や空間を撮影してきた。それならば、数百年に一度の巨大地震がもたらした震災の災禍など、ちょっとしたかすり傷くらいのものだろう。けれども同時に、そのような震災をも包括する悠久の時空をとらえるためには、やはり写真という文明の利器が必要なのであって、そうした技術や装置が滅んでしまえば、作品そのものが根本から成り立たなくなってしまう。そして今回の震災は、原発事故を孕むことで、まぎれもなく、近代文明を支えてきた技術そのものの危機を招き寄せている。
かねてから杉本は、みずからが「最後の銀塩写真家」であらんことを口にしてきた。たしかに、これまでの代表作は、いずれもその延長線上に念入りに紡ぎ出されてきたものである。けれども彼が、たんに最後の銀塩写真家なのではなく、人類の文明を担保する最後の技術者でもありうるとしたら、どうだろう。世の終焉の背後(翌日)に立ち会って、その様を記録する「最後の人類」の視点を切り取りたくはならないだろうか。
精確でないかもしれないが、本展をめぐるトークで杉本の対話者から、河原温のように、最後の最後まで方法と形式を徹底すべきだという意見が出されたと聞く。しかし、考えてみれば結局、美術といえども近代文明のごく一角を担っているにすぎないわけで、いくら方法や形式を徹底しても、それで後世に通用する普遍性が保証されるわけではない。その点で私は、本展での杉本の「あがき」のほうに(文明そのものではないにせよ)「現代美術」が滅んだあとの「テーマパーク化する世界」への射程を、むしろ感じる。
それより気になるのは、本展が杉本の収集してきた膨大なコレクションの一大公開場となっていることかもしれない。その点では、見え方の違いにかかわらず、今年の初頭に開かれた「村上隆のスーパーフラット・コレクション」展と並べて考えてみるべきなのだろう。名をなし、財を築いた作家に共通する、蒐集をめぐる「ある種の傾向」について。
PROFILE
さわらぎ・のい 美術批評家。1962年生まれ。近著に『後美術論』(美術出版社)、会田誠との共著『戦争画とニッポン』(講談社)、『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)など。8月に刊行された『日本美術全集19 拡張する戦後美術』(小学館)では責任編集を務めた。『後美術論』で第25回吉田秀和賞を受賞。
(『美術手帖』2016年11月号「REVIEWS 01」より)