ミュージアムから先に変われ!
美術館と墓場!……得体の知れないたくさんの遺体が不気味に混在するという点で、まさしく両者はおなじものである(*1)
イタリアの詩人、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが『未来派創立宣言』をフランスのフィガロ紙に発表したのが1909年2月のこと。美術館と墓場を総合的にとらえる衝撃的な一節を含む「宣言」とその後の未来派の活動は、100年以上たった日本に現れたアート・ユーザー・カンファレンス(以下、AUC)を考えるにあたって参照すべき点があるように思われる。墓は地中深くに死者を眠らせ、美術館は死者(=収蔵作品)を叩き起こして地上に展示する。墓と美術館のあいだで、相反するふたつの力が働くオルタナティブな場所として「ミュージアム」をとらえようとすること。それは、未来派の先でAUCが立ち上げた(ように見える)ジェネラル・ミュージアム(以下、GM)の扉の前に立つことである。
AUCは、作家や批評家、キュレーターといったアートにまつわる分業的なあり方をユーザー(使い手)の立場からとらえなおし、新しいアートの場を創生することに取り組むアノニマスなグループだ。そんなAUCが運営するGMとは、自らの置かれた環境世界をジェネラル(総合的)にとらえ、「あらたな公共圏=ミュージアムを構想・実践するプロジェクト」(GMウェブサイトより)という。
ちなみにGMは、AUCも参加する青森県立美術館の事業「美術館堆肥化計画」(2021年~)でも展開中だ。本事業は、アーティストらの地域を題材にした展示やワークショップを介して、ミュージアムを特定の施設があって成立するという見方から解放し、ミュージアムを地域ゆかりの表現・歴史・自然にまたがる関係性の編み目のなかで、人が生きることの可能性を拡げるための経験の枠組みへと変容させようとする(*2)。本事業のなかでGMは、県内に多く存在する考古遺跡や霊園からの連想により「ジェネラル・ミュージアム|墓」と題され、「墓」を手がかりにミュージアムが現実の空間を侵食するような様々な取り組みを続けてもらっている。
そんなGMが今回、「八王子市長房の住宅街に面した森」という実際の場所に会場を求め、彼らの思い描くミュージアムを具体的に示そうとしている。面白くないわけがない。期待値をふりきったまま会場に着いた。東京駅から電車で1時間ちょっと。意外と遠かった。そして暑い。入り口でGMのメンバーが出迎えてくれる。聞けば会期中はだいたいここにいるらしい。いやはやなんとも……お疲れさまです。
長房のGMは「コレクション展」「企画展」といったミュージアムに既存の展覧会という枠組みをあえて踏襲し、コレクション展「コラージュ、カムフラージュ」と現存作家の出品作による企画展「dis/cover」という、2つの展覧会が森のなかに重なるかたちで構成されている。ところで「展示」とはなんだろうか。筆者の立場から端的に言えば、それは観客の視線を整えることだ。「整える」と言えば聞こえはいいが、実際に行われるのは、企画意図のもと作品から見るべきもの/見なくてよいものを取捨選択し、観客の視線をスムーズに矯正することだ。後述の「dis/cover」でGMが指摘するように、見ることには表すことと隠すことが同時に含まれているところがある。見ることに含まれる矛盾、暴力。展覧会とは、ミュージアムが作品と観客に対して理路整然と行う(視覚的)暴力の場にほかならない。しかしそんなミュージアムの抱える暴力構造に対して、GMは勝負を挑む。既存のミュージアムに自らを重ねがけすることで見えてくる様々な軋轢を元手に、私たちの生きる現実世界を内部から瓦解させ、生きるべきもうひとつの世界での存在の仕方を実践しようとしているのだ。
……結論を急ぎすぎただろうか。話を戻そう。長房でのGMはコレクション展と企画展という分化した構成がひとつの会場内で重なりあう。注意すべきは、会場にはコレクション展「コラージュ、カムフラージュ」しか見当たらないように見えることだ。詳しくは後述するが、企画展「dis/cover」は森のなかに隠されて展示されている。コレクション展による企画展のカムフラージュ。または会場内に入り混じるコレクション展と企画展。そんな状態はミュージアムをジェネラルなものへと変容させる先触れなのだ。
コレクション展「コラージュ、カムフラージュ」
コレクション展「コラージュ、カムフラージュ」から見てみよう。出展作家はアイビー、関東造盆地運動、シマウマ、ジョルジュ・ブラック、パブロ・ピカソ、葉潜り蠅、迷彩等々。なんだかすごい。植物や虫、地殻変動までが作家に名を連ねている。この場において制作主体は必ずしも人間である必要がない。「私たちの社会における共有物(コモンズ)をすべて『コレクション』とし、その膨大なアーカイブのなかから本展のテーマによってピックアップした作品を自生する樹木などを利用して公開しています」(会場配布のリーフレットより)。アイビーすなわち蔦。木やら周囲の家の壁面などを覆っている。会場内どこを見ても視界の端に残るアイビーは展示の基調である。
ブラックとピカソ! なるほど後世の芸術家に有形無形の影響を与え続ける2人の美術史上の巨人たちは、事実上のコモンズと言えなくもない。会場では、様々な物質を貼り合わせてできる2人のコラージュ作品の印刷図版を板に貼り付け、野ざらし状態で展示していた。森のなかのコラージュ。そこには「隠す/明かすという両義性」(会場設置の解説パネルより)が託される。コラージュには貼り合わせることで二次元的な平面としてだけでなく、微小な厚みを伴った三次元的なオブジェとしても鑑賞できる側面があるが、そうした特徴は会場内に生息する葉潜り蠅が引き継いでいる。幼虫のあいだは葉の中に隠れて過ごし、葉の表裏に鎖状の食べ痕をつける葉潜り蠅。「絵描き虫」とも称される彼らの仕事は、GMにおける制作者としてのふるまい方を人間以上の雄弁さでもって私たちに開示する。
ちなみに後日、GMに聞いたところでは、会期中、雨上がりにはカタツムリが「展示物を食べ、崩壊させていた」そうだ。既存のミュージアムが恒久性を志向するのに対し、GMが生成する崩壊や喪失。アンビバレンツな作用が充満する会場にぶちまけられた赤玉土を見やれば、それは造盆地運動に由来する関東ローム層の一部であると同時に、制作者が用いる絵具の粒子を暗示するようだ。そうして複数の意味と次元を往還しながら、限りなく接近する自然と人間の営み。それらの混成物を作品としてまなざすこと。ここから世界は、一歩ずつ着実に、GMへと近づいていく。
うろうろしていると迷彩服の写真が目にとまる。第一次大戦当時に大きく発展したカムフラージュ(迷彩)柄。柄の開発に多くの画家が動員され、キュビスムの手法が採用されていたという。戦争から生まれた環境に溶け込む新しい表現。転じて木々の間に目をやればピンナップされたヒョウ柄ビキニの女性やマンドリルの写真。その奥に見えるシマウマやヒョウの写真たち。生物の生存競争のなかで自分を隠し、変容させるべく開発されたカムフラージュ(擬態)の技法。迷彩と擬態には生物と社会が進化する過程における、ある種の闘争状態が横たわる。生と死の臨界とも言える、くんずほぐれつ血みどろの闘争状態は、ヴァレリーとプルーストそれぞれが考える「美術館」のあいだからアドルノが取り上げた、「芸術作品を血がにじむほどのっぴきならないものとして受け取る態度」(*3)を私たちに要求しているようにも見える。こうして世界はGMにまた一歩近づいていく。
企画展「dis/cover」
ここから企画展「dis/cover」にふれる。出展作家は、井出賢嗣、荻野僚介、神谷絢栄、阪口智章、佐塚真啓、鈴木あい、張小船、孫田絵菜。AUCは彼、彼女らに森の環境に隠れるかたちでの展示を依頼した。観客には作品を探し・見つける能動的な鑑賞が要求される。AUCは作家にも観客にも、GMに通底する自己矛盾的なスタンスを分有させているわけだ。作家はどう展示すべきか悩んだだろう。とはいえGMの現出にあたっては複数次元を重ねるコレクション展とともに、そこへの能動的なアクションは必須である。作家は皆、隠しながら見せるというこの難解な形式によく対峙していた。具体的に言えば、雑木林の環境条件に自作の支持体を分有させるかたちでAUCの要求に応えていた。いくつか紹介しよう。
井出や佐塚は、ベニヤ、ブロック、ビニール袋等の雑木林にいかにも投棄されていそうなものに作品を隠すとともにそれらと支持体を分有しながら、自らの立体作品や平面作品を展開していた。とくに井出による世界的ハンバーガーチェーンの紙袋に入れて見せられる彫刻《帰宅する》は、紙袋への防水処置としての蝋引きなどの繊細な配慮が光り、かえって作品の彫刻としての強度を底上げしていた。佐塚が森に自生する竹の表面を枝でひっかいて描いた小さなドローイング《草々》は、その飄々とした軽やかさが竹林を吹き抜ける風のごとし、といった感じで快い。
封筒に入って廃棄されたような、阪口による《母と父のお見合い写真に扮するセルフポートレート》は、父母と自らとの間で分有される肖像のあり方が興味深い。しかしそれ以上に、見てはいけないものを見てしまった感が付きまとうのは、これを雑木林のなかで見ているからだろうか。ここで思わず筆者が幼少の頃、図らずも近所の森で見つけてしまった成人向け雑誌のことを連想してしまう。小学生に緊縛はあまりに早かった……すみません、長房の雑木林に戻ります。
張の《iPhone之墓》や、自身が直面した教育現場の抑圧を拒否する作品は、工業や教育といった近代由来の社会制度を足がかりにしつつ、同じく近代由来のミュージアムから別の可能性を希求するGMの姿勢と共鳴する。GMとの直接の共鳴は鈴木の作品展開にも見られるが、張の展開が具体的な物質を支持体とするのに対して、鈴木による《埋められた『重力と恩寵』を読む》は、支持体を観客と分有する。
鳥に花びらを食べられ、草木のなかによりカムフラージュされた神谷の「花」は発見できず、虫よけのための蚊取り線香は会場にあっても、それをモチーフにした荻野の作品を持ちかえることができなかったのは悔やまれる。でも一方で、それでいい気もしている。だってここはGMだ。次元を行き来しているあいだに、ものが見えなくなったり現れたりするのはいかにもありそうだ。
最後に孫田による樹上に展示された《パラレル》、繁茂する草葉に隠れるようにして展示された《2つのストライプ(菱形)》は、GMの環境条件が作品の魅力をたんに美術館やギャラリーで見る以上のものへと押し上げていたように思う。直線と様々な色面からなる孫田の絵画作品は単体で見ても十分に魅力的だが、木漏れ日と一体化したなかで作品を鑑賞する体験は得難いものであった。作品と現実における空間が相互に貫入するような……ここでは作品を通して得られた知覚がGMを経由することで現実を裏返すような、戦後日本を代表する詩人・思想家の谷川雁が「幻影の革命政府について」(1958)で示した「原点の力学」にも類する動力が渦巻いているように見える。
ミュージアムの原点に立ち返って
原点。そうだ、ミュージアムの原点に立ち返って結論に進もう。いまから200年以上前、市民の手により王侯貴族の宝物庫はひらかれた。彼らの財産は私たちのものになった。見ることが現実を崩壊、再構築させたのだ。そこにミュージアムのひとつの原点がある。近代以降のミュージアムにおける私的な作品鑑賞には、私たちの生きるこの現実世界をつくり変えてしまうような動力がひそんでいる。そして見ることの矛盾を揚棄した先に現れる「あらたな公共圏」としてのGM。そこは死者と生者、自然と人間の仕事の境を混ぜこぜにする。そこで事物の一切は私たちに見出され、使われることを介して、私たちにあることを要求する。GMは私たちに個としての生を全うすることを通じて、世界とのいまある距離の再設定を求めるのだ。距離の再設定とは、すなわち空間の仮設である。空間の崩壊と生成の只中にあって、私たち一人ひとりが自らの生を整え、養いなおすための場所を見出そうとすること。GMはそこに成立する。
もう少し具体的に言おうか。私たちの生きる、混迷極まる現実。隠れた敵との戦争状態とも言えるようなこの現実。そこにあるのは、私たちの鼻と口を覆うマスクという白くて薄い壁と、東日本大震災以降、ことに東北地方の沿岸部を囲む防潮堤という名のコンクリートの分厚い壁、壁、壁。そんな様々な「壁」で仕切られた現実世界は、概念的にも空間的にも、ひとつの巨大なミュージアムの様相を呈している。ミュージアムとは、もはや特定の場所を指すのではなく、知覚や経験の枠組みとして扱うべきだ。この現実をひっくり返すべく、ミュージアムから先に変われ! そのなかでGMとは、私たち一人ひとりが深く現実に根を下ろし、その根でもって現実に抗するための力学的形式と言えるのではないだろうか。
*1──F.T.マリネッティ「未来派創立宣言」『未来派1909-1944』堤康徳訳、東京新聞、1992年、63-64頁。
*2──「美術館堆肥化計画2021」ウェブサイト https://www.aomori-museum.jp/schedule/4637/
*3──テオドール・W・アドルノ「九 ヴァレリー プルースト 美術館」『プリズメン』渡辺祐邦・三原弟平訳、筑摩書房、1996年、286頁。