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女性だけのものではないフェミニズムに向けて。高嶋慈評「ぎこちない会話への対応策─第三波フェミニズムの視点で」「フェミニズムズ/FEMINISMS」

金沢21世紀美術館にて、長島有里枝がゲストキュレーターを務める「ぎこちない会話への対応策─第三波フェミニズムの視点で」展と「フェミニズムズ/FEMINISMS」展が同時開催されている。ともにフェミニズムをテーマとした2展について、美術・舞台芸術批評の高嶋慈がレビューする。

西山美なコ ♡ときめきエリカのテレポンクラブ♡ [アーカイブ展示] 1992/2021 作家蔵 撮影=木奥恵三

「ピンク」は誰のものか?

 2020年後半に開催された「彼女たちは歌う Listen to Her Song」展、「性差(ジェンダー)の日本史」展に続き、2021年は、久保田成子、ピピロッティ・リスト、石内都、山城知佳子、ロニ・ホーンといった物故・ベテラン・中堅の女性作家の回顧的な展覧会や、70代以上の女性作家を集めた「アナザーエナジー」展、近世から現代までの「美男子の表象」を検証する「美男におわす」展など、フェミニズムやジェンダーに焦点を当てた企画展が続いている。デザインの分野でも、「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」展や、2009年の「上野伊三郎+リチ コレクション展」での並列的な扱いからさらに進み、ひとりのデザイナーとしての仕事を焦点化する「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」展など、「デザイナーや建築家の妻」という女性デザイナーに対する従来の副次的な見方を問い直す再評価が進む。フェミニズムをテーマとした2つの企画展の同時開催も、こうした時流に連なるものだ。

 「複数形のフェミニズム」を掲げる「フェミニズムズ/FEMINISMS」展と、写真家の長島有里枝がゲストキュレーターを務める「ぎこちない会話への対応策-第三波フェミニズムの視点で」展(以下、「フェミニズムズ」展、「ぎこちない会話」展)。両展ともに、明確にフェミニズム的主張を掲げていない作家や男性作家も含み、一枚岩の声高な主張ではない「複数性」や「フェミニズム的解釈の可能性」をうたう姿勢には意義があるいっぽう、それぞれひとつの独立した企画展としてはやや拡散的に感じられた。むしろ強く感じたのは、展覧会をまたいで照射し合う作品どうしの関連性だ。

 両展はともに1990年代前半を起点に据える。すなわち、長島自身を含む若手女性写真家が男性評論家によって「女の子写真」という女性蔑視を含む呼称を与えられ、西山美なコが「ピンク」という色の持つ両義性──少女向け消費文化/性産業──を戦略的に社会に突きつけた時代である。長島は近年、「女の子写真」の言説における男性中心主義を批判的に検証する執筆活動も行っており、著書『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020)を刊行した。「ぎこちない会話」展は、長島自身と家族の家庭内での日常生活をヌードで再現した1993年のデビュー作《Self- Portrait》で幕を開ける。そこからまず浮上するのは、「性と消費」のテーマだ。

木村友紀 存在の隠れ家 1993/2021 作家蔵 ©️Yuki Kimura, Courtesy of Taka Ishi Gallery

 長島の《Self- Portrait》の制作動機は、当時流行していたヘア・ヌード写真への批判にあるというが、「性」が秘匿されるべき「健全な家庭」内に、「性的対象として商品化されない身体」を持ち込み、挑発的に衝突させた。また、長島作品と同年の1993年に発表された木村友紀の写真作品《存在の隠れ家》では、自身の身体パーツを、アメリカの成人雑誌『プレイボーイ』のウサギの商標や水着などのシルエットに切り抜き、個人の身体が「性的記号」としてバラバラに寸断され、個人としての顔貌も尊厳も奪われ、消費価値に還元される事態を批判する。

 いっぽう、「フェミニズムズ」展では、1990年代前半、性産業の「ピンク」と少女向け消費文化を彩る「ピンク」という両面性を掛け合わせた西山美なコの2つのテレホン・プロジェクトをアーカイヴ展示する。《♡ときめきエリカのテレポンクラブ♡》(1992)は、テレホンクラブのチラシを模して、少女マンガふうのキャラクターに電話番号を記したポスターを街中や公衆電話ボックス内に掲示し、同様のポケットティッシュを街頭でゲリラ的に配布した社会実験的な試みであり、いま見ても強いインパクトと意義を持つ。発表当時は、この電話番号に誰かが電話をかけてくると、ギャラリー内の「テレホンクラブの個室に見立てたピンクの小部屋」の電話機が鳴り、観客と通話できるようになっていた(*1)。今回のアーカイヴ展示のインスタレーションでは、過剰な装飾が施された額縁あるいは鏡の枠飾りの中に、街頭でのポスターのゲリラ展示の記録写真、すなわち歪な社会の鏡像が映し出される。1990年代前半は、「援助交際」という語の流行や「ブルセラショップ」など「少女が性を売る」ことが加速した時代であり、「ピンク」の両面性は、女性が「かわいい」文化の消費主体であると同時に性的消費の対象でもあることを突きつける。

木村了子 Beauty of My Dish - 人魚達の宴図 2005 個人蔵

 そうした一方的な消費の視線に異議を唱えるのが、「美人画」が内包する不均衡なジェンダー構造を反転させ、「美しい現代男性像」を「美男画」として描く日本画家の木村了子である。障壁画ふうの竜虎図に「健康的な若い男性ヌード」を配したり、人魚たちが刺身の「男体盛り」を楽しむ様子を描いた出品作は、「性的消費主体としての女性の眼差し」を肯定的に回復させる。

碓井ゆい shadow of a coin 2013-2018 個人蔵 撮影=木暮伸也

 また、両展を批評的に架橋するもうひとつの軸が、家事や育児など家庭内での再生産労働やケアワークに言及する作品群である。「フェミニズムズ」展の碓井ゆい《shadow of a coin》では、様々なコインの円形を刺繍枠に見立て、家事や育児など「無償の愛の行為」として女性に課せられるケア労働の多様な形態が、同じく「シャドウワーク」の針仕事で縫い取られる(その名も、模様を透かし見せる「シャドウワーク」という刺繍技法が用いられている)。いっぽう、「ぎこちない会話」展では、渡辺豪の3DCGの映像作品《まぜこぜの山》が、「シャドウワーク」に文字通り光を当てる。洗濯された衣類が積み上がった「山」は不動のまま、刻々と光が移り変わり、時間の推移が示される。それは、時代が移り変わっても相変わらず蓄積され続ける家事労働の「山」であり、課題の積み残しの示唆でもある。そこでは、ケアワークの担い手の姿は不可視化されたままだ。

渡邊豪 まぜこぜの山 2016 作家蔵 ©️Go Watanabe Courtesy of ANOMALY

 また、日用品をナンセンスに組み合わせた道具=「兵器」の逸脱的使用により、身体の左右対称性をはじめとする認知体系の解体を企てる小林耕平《殺・人・兵・器》と、性別二元論や射精中心主義に依存しない「理想の性器」を粘土でかたちづくる遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》は、ともに「対話」のプロセスを開きながら、既存の身体秩序をゆるやかに組み換えていく。

小林耕平 殺・人・兵・器 2012 作家蔵 ©︎Kohei Kobayashi Courtesy of ANOMALY  撮影=木奥恵三
遠藤麻衣×百瀬文 Love Condition 2020 作家蔵

 このように、「ひとつの自律した展覧会」としての枠組みの強さよりも、展覧会をまたいで出品作どうしをつなぐ回路を強く感じた理由としては、金沢21世紀美術館の建築の構造も作用しているだろう。つまり、一直線の順路がなく、脱中心的で、多孔的な出入口を持つ展示室が連なる構造だ。

 ただし、「フェミニズムズ」展にはいくつか疑問が残る。まず、テーマカラーとして採用された「ピンク」。チラシ表面の全面ピンクに始まり、会場の壁の展覧会タイトルや、ご丁寧に配布マップの紙の色までピンクなのだ。企画趣旨には「90年代フェミニズムとガールズカルチャーの結び付き」が記されるが、該当するのは西山美なコのみであり、西山とそれ以外の2000年代以降の作家とのつながりは希薄だ。また、明確にフェミニズムを表現するわけではない作家や男性作家も含む本展だが、「ピンク」をテーマカラーに採用することは、「女性=ピンク」というステレオタイプの強化や「フェミニズムは女性のもの」とする囲い込みに加担し、潜在的な射程の可能性を狭めてしまうのではないか。

 さらに、本展は、「世代や時代、所属する国家や民族、それぞれの環境や価値観によってフェミニズムの考え方や捉え方は異なり」「近年、フェミニズムは複数形で語られ始め」たと述べる。だが、例えば、ジェンダーを軸に、家族、生殖、ヘテロセクシズム、人間/非人間の境界や差異を問う「彼女たちは歌う Listen to Her Song」展に比べると、「女性」というカテゴリー内部の多様な差異について考慮されていたとは言い難い。「フェミニズムズ」展と「彼女たちは歌う」展では、遠藤麻衣×百瀬文とユゥキユキの出品作品が重複するが、「彼女たちは歌う」展には、「沖縄」「在日」「障害者(ろう)」「トランスジェンダー」「(ファンタジーの世界の)同性愛」といった地理的・民族的・社会的・セクシュアリティの多様な差異が含まれていた(*2)。「出品作家を女性に限定しない」という点では一歩前進した「フェミニズムズ」展だが、(テーマカラーの問題を含め)「複数性」「多様性」がどこまで担保されていたのかは疑問が残った。

 だが、こうした一歩ずつの積み重ねが、日本社会と美術界の構造を変えていくと期待したい。作品というひとつの「声」は、展覧会という思考装置を通じてより合わされ、さらに展覧会どうしが共鳴することで、多声的な集合体として響いていくのだ。

*1──『西山美なコ展 ピンク・ピんク・ぴんク』西宮市大谷記念美術館、1997年。西山美なコ『西山美なコ/~いろいき~壁の向こう側』新宿書房、2011年、84‐85頁。
*2──「女性作家」がジェンダーを語るとき。不均衡へ問いを 高嶋慈評「彼女たちは歌う Listen to Her Song」展

編集部

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