椹木野衣 月評第87回 川はどこから流れてくるのか 「水と土の芸術祭2015」、髙橋伸行「旅地蔵─阿賀をゆく─」
このところ「芸術祭」やら「トリエンナーレ」やらが、単なる地域活性化のための「公共事業」に堕しはじめているというのをよく耳にする。けれども、事業とはいえ人間の表現が基盤に据えられている以上、一作一作を見極めることが判断の出発点であることに違いはないはずだ。
今年、第3回となる「水と土の芸術祭」(新潟市全域)は、地域に散在する「潟」の記憶を会場構成の基本に据えた点で「なぜ新潟なのか」という問い(なぜ「新潟」と呼ばれてきたのか? なぜ「ここ=新潟」で行うのか?)に二重に答えており、ひときわ興味深かった。なかでも、髙橋伸行による「旅地蔵─阿賀をゆく─」は、新潟水俣病という、本来は豊かさの原点であるべき「水と土」が引き起こした過去の記憶を呼び戻し、「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」(同芸術祭の基本理念)についての熟考を迫るプロジェクトであった。
戦後、日本で発生したいわゆる「四大公害病」(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)は、いずれも高度経済成長と歩を一に、大企業による営利活動から発生している。なかでも、髙橋が扱った新潟水俣病は1964年に発生した新潟地震の翌年、65年に発生が公式に確認された。世は東京五輪で一色の時期である。
それから今年でちょうど50年が経つ。すなわち2015年とは、東日本大震災、東京電力福島第一原発事故〈以後〉=新東京五輪〈以前〉における「公害」(この言葉自体、死語に近い)の「現在」について考えるうえで、もっとも意義ある年であるはずだ。
にもかかわらず、そんな声はいっこうに聞こえてこない。髙橋のプロジェクトは、芸術祭を通じ、そんな風潮に楔を打ち込む、実に画期的なものとなった。
新潟水俣病を発生させたのは、阿賀野川上流にあった昭和電工の排水に混じっていた有機水銀による。しかし時代を遡ると、さらにその上流には日本の鉱山開発の原点と呼んでよい草倉銅山跡地がある。
いまでは無縁仏が乱立する凄惨な風景が広がるが、かつては多くの富を地域にもたらし、その開発モデルが全国に展開されていった。同じく公害の原点となる足尾銅山もまた、そのひとつであった。
髙橋は芸術祭に参加するなかで、この土地に、足尾の石でつくられながら居場所を持てず、すっかり忘れられていた地蔵があることを知る。そして、地蔵に改めて魂を吹き込むため、この「旅地蔵」をリアカーに積み、阿賀野川の河口の街、松浜(ここからも多くの新潟水俣病患者が出ている)から草倉銅山跡まで10日間で踏破。
そのなかで出会った人々との出会いや土地ごとの風景を、「松浜の家」と題し、全面が泥塗りで、新たな出生を待つ旅地蔵の胎内のようなインスタレーションに仕上げた。
近代と国家と企業。民衆と救済と闘い──本作ではこのふたつの対極が、新潟という土地の「水と土」を通じて文字通りにせめぎあう。実現までには、じつに多くのことがあったと聞く。通常の美術館による企画では、おそらく実現は不可能であったはずだ。
昨今、さかんに耳にするようになった「地域アート批判」は、はたして、こうした困難な試みまでを見据えて言われているだろうか。
(『美術手帖』2015年11月号「REVIEWS 01」より)