反復のなかに浮かびあがるオリジナリティ
図案とは本来、建築や家具、織物、器、宝飾品、印刷物など、何かを装飾するために考案された文様である。つまり、異なる素材上で再現されることが前提とされているのであって、図案そのものが鑑賞の対象となることはない。しかし、「東京美術学校の図案」展に出品された、《装飾図案》や《装飾文様》のタイトルを冠した1920年代の卒業制作は、いずれも1点の絵画作品として構成されたものばかりである。それどころか、表現主義や構成主義、未来派、ピュリスムといった同時代の前衛美術への傾倒もみてとれる。この背景には、1919年に東京美術学校の図案科の教壇に立つようになった、斎藤佳三と今和次郎という2人の先進的な講師の存在が大きいことが同展では示唆されていた。彼らが「西洋文様学」や「住宅論」といった授業のなかで、実際にどのような教材を用いて、どのような指導を行っていたのかは明らかにされていなかったが、後に見るように、同時代のヨーロッパにおいて図案がたどった変遷を振り返れば、20世紀初頭の東京美術学校の図案科で起こった変革も当然の成り行きであったことが了解されるだろう。
同展の第1章では、「日本美術における文様・デザイン」と称して、18〜19世紀の日本画を中心に、図案により近い役割を果たす円山派の粉本や、狩野芳崖が能装束模様を紙に写し取ったものなどが紹介されていた。仏画や山水画、花鳥画など主題によっておおよその型があり、屏風や襖絵、掛け軸など室内装飾として機能することの多い日本画は、より図案的なイメージが多いと言えるかもしれない。他方、ヨーロッパでは、アカデミーの発足以降、もともと装飾的な位置付けであった視覚芸術が、タブローや彫像として建築から切り離された結果、作家の創造性が重視される純粋芸術(絵画、彫刻)と、実用的機能を持つ応用芸術(工芸)という区別が生じることになった。ところが、絵画が歴史や宗教、肖像、静物といった主題から徐々に解放され、その関心が構図やデッサン、色彩といった画面内部の造形に向かうようになった19世紀後半から20世紀初頭にかけて、純粋芸術と応用芸術のヒエラルキーは徐々に崩れていく。
19世紀末にヨーロッパの各地で起こったアーツ・アンド・クラフツ運動や、アール・ヌーヴォー、ユーゲント・シュティールといった装飾美術運動は、いずれも産業革命による工業化に抗い、自然界のモチーフを研究することで、新たな様式を生み出そうとする試みであった。アール・ヌーヴォーの理論的立役者であるウジェーヌ・グラッセは、芸術はつねに新しいものであるべきと唱えつつ、自然の模倣を超えた、新たな様式化の方法論を確立することを目指した(*1)。そしてこの時代の装飾美術運動の高まりと呼応するように、ヨーロッパ各地で図案集や装飾デッサンの理論書が数多く発行されている。これらの図案集を紐解くと、19世紀後半には、動植物の観察に基づく優美なアラベスク文様や、古今東西の装飾文様を集めたもの(日本画も図案の一例として紹介された)が主流であったが、20世紀に入ると、点や直線、曲線を起点とした幾何学的な装飾、すなわちより純粋なフォルムの探求へと向かっていく(*2)ことがわかる。こうして、デッサンと色彩の無限の組み合わせの先に新たな表現を志向した装飾美術の実験が、アカデミックな主題や技法から離れて、同じく新たな造形言語を獲得しようとした絵画的探求を後押ししたことは想像に難くない。何より19世紀末から20世紀初頭にかけて、装飾デッサンはあらゆる美術学校のカリキュラムに組み込まれており、装飾と絵画の実践を完全に切り離すことは困難であっただろう。
西洋におけるこうした状況をふまえると、図案の名のもとに、20世紀初頭の東京美術学校の学生たちが、ともすれば同時代の国内の洋画家たちに先んじて、前衛的な表現を取り入れていったことも納得できるだろう。とりわけ、1912年にドイツに渡り、ベルリン王立美術工芸学院で構成美学を学んだ斎藤佳三の影響が大きかったと推測される。興味深いのは、油彩とキャンバスによる卒業制作を仕上げた学生たちの多くが、卒業後は企業の図案部や広報部に就職し、舞台美術家や商業デザイナーとして近代日本デザイン界の担い手となっていったという事実である(*3)。このことから、反復や再現を前提とした図案という枠組みのなかで、唯一無二のオリジナリティに重きを置いた表現が見出された結果、デザインには相反する2つの方向性が組み込まれていったという見立ても可能かもしれない。第3章で紹介された、図案科の流れを汲む建築科や工芸科の近年の卒業制作に、そうした葛藤から生まれた創造を見ることもできるだろう。
「東京美術学校の図案」展と同時期に開催されていた「再演-指示とその手順」展は、前者とは逆に、本来は制作の一回性に依拠するオリジナリティを備えた作品を、反復し再演(再現)することが可能か、その過程で作品の同一性は担保されるのかを問うた企画である。第1章「創造のために」、第2章「再演のための指示」、第3章「再制作と継承」および第X章「ミュージアムの仕様:暗黙の了解」で構成された同展は、実例の具体的な紹介を軸にしたことで、位相の異なる問いが幾重にも交錯しており、展示構成の複雑さも相まってやや混沌とした部分もあったが、作品の再演(再現)という現代美術において避けることのできない問題を考えるにあたり、多くの示唆を与えてくれたように思う。
多種多様な事例をめぐりながら浮かび上がってきたのは、作品を構成する「空間(場所)」「もの(生体や映像・音響機材も含む)」「行為」という3つの要素である。それぞれ、オリジナルを保持することが重要であるのか、あるいは代替可能であるのかによって、再演(再現)の仕方は異なってくる。作品が「空間や場所」と切り離せない場合、その空間を再現する必要があるが、特定の場所が失われてしまった場合は、再現を断念し、記録によって伝えていくという選択肢もあるだろう。「もの」については、絵画や彫刻のようにオリジナルを重視する場合も、経年変化をどうとらえるかという課題がつきまとうし、代替可能な場合は細かな条件を設定しなければならない。「行為」はもっとも言語化が困難であり、異なる主体による差異をどこまで許容するのか、そのあらゆる可能性を想定することはほとんど不可能にも思われる。実際の作品は、この3つの要素が絡み合って成立するものであり、再演(再現)のためには、その条件や手順を詳細に記した指示書(インストラクション)が必要不可欠となる。
同展の最後に展示されていた川俣正の《自画像》のケースでは、指示書の重要性を改めて認識させられた。1979年の卒業・修了制作展以来、当時の状態で展示されたことが一度もなかったという同作品は、当時の指示書や展示写真を参考に「もの」そのものの展示が行われてきたが、これまで「もの」が置かれる場所や状態、そこに加えられた行為という視点が欠落していた。今回作家本人への聞き取りが行われたことで、そのことが明らかになったという。一見すると無造作に置かれたように見える「もの」にも、作家の意図による「行為」が潜んでいる。同展のタイトルが「再現」ではなく「再演」となっているのは、そんな気づきも込められているのではないだろうか。
そして、同展で繰り返し語られる「同一性」という言葉も、字義通りのものではない。企画協力者の松永亮太が記す通り「同一性にはヴァリエーションがある」(*4)のであり、作者の生前は作者が作品を同一とみなすか否かの判断を下すことができるが、作者の没後は、学芸員であれ、研究者であれ、記録や指示書を手がかりに第三者がその役割を担うことになる。いずれにしても、指示書を作成するにあたってのマニュアルなどは存在しないし、同一性を保証する判断基準もケース・バイ・ケースである。多様化する作品に向き合い、作家と協議しながら、ある作品がその作品として存在する条件はなんであるのかを突き止めていくしかない。それは反復のうちに生じる差異を時に肯定的に受け入れながら、同一性のみに規定されるわけではないオリジナリティを存続させていく試みである。
*1──この態度は1897年に装飾芸術中央連合で行われたグラッセによる講演会で明確に示されている。Eugène Grasset, « L’Art Nouveau, conference faite à l’union centrale par M. Eugène Grasset (le 11 avril 1897) », Arts décoratifs, mai et juin 1897.
*2── 古今東西の文様を集めた図案集としては、オーウェン・ジョーンズの『装飾の文法』(1856)やジュール・ブルゴワンの『装飾の理論』(1873)、植物をモチーフにした図案集としては、ウジェーヌ・グラッセ監修の『植物とその装飾的応用』(1896)、幾何学を展開した装飾理論書としては、グラッセによる大著『装飾的構成の方法』(1905)がそれぞれ挙げられる。
*3──中江花菜「藝大コレクション展2021 II期 東京美術学校の図案-大戦前の卒業制作を中心に」リーフレット、2021年8月31日。
*4──松永亮太「自画像|学生制作品(美術)4269|川俣正|1979」『再演 指示とその手順』リーフレット