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されど、降雨は呼吸のように。大下裕司評「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」

45歳の若さで逝去したアーティスト・佐藤雅晴(1973〜2019)の活動の全貌を紹介する展覧会「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」が大分県立美術館で開催された。佐藤の代表作《Calling》《東京尾行》《福島尾行》などの映像作品をはじめ、フォトデジタルペインティングやアクリル画などが展示された本展を、大阪中之島美術館学芸員の大下裕司がレビューする。

文=大下裕司

「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」展示風景より、《東京尾行》(2015-2016) 

 2019年に45歳で逝去した佐藤雅晴の回顧展「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」が、大分県立美術館にて2021年5月15日から6月27日まで開催された。佐藤の代表的な作風は、カメラで撮影した映像の上から、その一部やときには映像全体を上書きした「ロトスコープ」の技法で制作されたアニメーションであるが、それと同時に取り組んできた平面作品と併せて、ほぼ時系列順で展示された回顧展となった。

 展覧会のタイトルについて、「佐藤の作品は、実像と虚像が入り交じるような画面を特徴とし、見る者に、現前に移る事物の存在感とともに、その逆にあたる不確かさや儚さなどを感じさせる『存在の不在/不在の存在』とでもいうような独特の世界観を持つものである」(*1)と、大分県立美術館の宇都宮壽学芸企画課長はこの展覧会に際して制作されたカタログレゾネの冒頭に記している。

 作家の詳細な経歴や活動歴、個々の作品分析は上述のカタログレゾネに譲りたい。展覧会全体の構造は、プロローグとして作家の最初の美術館での個展で展示された《東京尾行》(2015-2016)から始まり、一部作品の種類によって入れ替わりがあるものの、大筋は制作年の順番に進んでいく。展覧会の最後は、映像作品としては彼の絶筆となった《福島尾行》(2018)と、生前最後の個展で発表された「死神先生」のシリーズで結ばれる。

「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」展示風景より、《福島尾行》(2018)

 回顧展とは、作家の一生にわたって制作された作品群を通して、作家の活動の全貌を紹介する展覧会を指すことが多い。若くして亡くなった作家の人生を、ほぼすべての作品を鑑賞しながら、作家がどのような作品をつくり、またどのような変遷の先に、どこにたどり着いたのかを知るきっかけとなるだろう。先述の通り、佐藤は映像作品と平面作品をおもに制作した。映像はほとんどが短い尺の映像がループするもので、延々とシーンが繰り返されるのが印象的である。しかし数秒でも映像であることで、作品にはそれぞれタイムコードが存在している。

 映像作品は通常、再生にともなう時間軸がある。つまり起点となるAの地点から、終点となるBの地点へと時間経過によって展開する状態にある。アニメーションによる映像のループは、映像の特徴でもある無限の運動性を携えて、A→B=A→Bという展開を繰り返している。この場合、タイムコードはAにおいては0であり、Bにおいてはその映像の尺いっぱいとなる。Bに到着した時点でタイムコードは0に戻り、それはイコールAということになる。そこから再びBを目指す。仮にこのループを順行と呼んでみる。

 佐藤の映像作品には「行った先から帰ってくる」タイプのループも存在する。これはつまりAから走り出した映像が、Bに辿り着くと同時にAにワープするというものではなく、辿り着いたBから遡るようにして再びAに帰っていくという映像である。つまり、A→B→A=A→B→Aという構成を持つ。これは順行のあとに同じ時間分の逆行を含んでいるとすることもできるだろう。もちろんこれにはループする映像が不自然にならないような「ワープ」の精度、起点と終点がうまくつながるような技術的あるいは制作上の考えもあるに違いない。この展覧会で非常に興味深いのは、このときタイムコードと呼ぶ数字として認識可能な映像の尺と同時に、複数の時間軸が展示室にまたがっていることだ。

 ひとつはA→Bの繰り返しである順行。もう一つはA→B→Aとなる順行+逆行。作品についていえば実はA→Aというループも存在している。それは、平面作品を前にして受けとる一瞬という瞬間の積み重ねでもある。佐藤の制作する平面作品は、作家を代表する作風であるロトスコープを用いた映像作品に比べて、言及されることは少ない。作風というものを仕上がった状態から読み取ろうとするとき、あるいはこうした作家の生涯を順行する展覧会でなければ目立たない存在かもしれない。晩年、作家自身の体調との対峙ももちろんあったなかで、遺作は平面作品であった。A→Aのループは再生を一時停止しているわけではない。この展覧会の順行において、それは常にA→Aのループのなかにある。

「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」展示風景より、「死神先生」シリーズ

 ただし、この展覧会は佐藤雅晴という作家の回顧展である。それを見に来た私たち一人ひとりは個別の具体的な存在である。作家がすでにその生涯を惜しまれながらも終えたように、私たちもまた、それぞれに個別の終わりがやってくる。それは避けがたく絶対的で、生まれたときからそれぞれを飲み込んでいる、強烈なタイムコードである。私たちは(少なくとも、今の科学では)死を避けようがない。

 しかし、この展覧会は回顧展である。本展のような遡及を可能にするのは、当人のタイムコードが止まった時点であり、その不在によって現時点Bから再びAにワープする。この展覧会の後、ワープした後のAからBへと再び歩みだす。私たちが共通する、この生きていることの「立ち戻らない」時間軸は、回顧展という特性の持つ3つ目のタイムコードとして出現する。しかしこれまで記してきたループやワープ、順行や逆行に逆らうものがある。それは、私たちの経験することの力だ。AからBに移動してAに戻ったとき(A→B→A→B→……)。AからBに移動してAに引き戻されていくとき(A→B→A)。そこからプロスペクティブがどのように展開するか。「私たちは自らを、死に負って」(*2)おり、そこで展示室は映画『TENET』におけるスタルスク12かもしれないが、すでにその時の「私」は存在しない。この回顧展では、佐藤の作品全体を通じて、そうした「経過」を超えることの意味に触れることができる。

 さて、カタログレゾネには各執筆者による作品の非常に詳細な分析が掲載されている。そこで言及されていない作品にひとつだけ触れておきたい。2017年、佐藤雅晴は筆者の企画した「オオカミの眼」(*3)と題する展覧会に参加した。これはイラストや絵画等に描かれた青い眼のオオカミを想像/イメージできる一方で、生物学的にはオオカミにはアンバーの色の眼を持つものしかいない(青い眼のオオカミは「存在しない」)、というジレンマがもとになった企画であった。青い眼のオオカミと聞いて、その様相を想像できる「私」がいる現実には、琥珀色の眼のオオカミしか存在していない──そうしたテーマに佐藤は非常に深く関心を寄せ、さっそく制作を開始した。茨城県内の博物館からオオカミの剥製を借りて撮影をするとしていた最初の構想はいつしか、オオカミの着ぐるみによる屈伸運動を撮影して、その部分をアニメーション化するプランに変わった。完成した作品が《オオカミになりたい》(2017)である。この作品の制作をしていたころの佐藤は一時的に体調も回復し、人間の不在を描いてきた作家のビジョンに、運動や骨格、人間と動物の差分といった新たな観点を見いだしているようであった。この作品は順行と逆行による作品であり、よく見ると背景の雨は降下と上昇を繰り返す。回顧展を通じて佐藤雅晴の視座の変化とそこに共通する「光景」の痕跡に触れた後で、展示室を少しだけ、逆行してみていただきたい。

「佐藤雅晴 尾行-存在の不在/不在の存在」展示風景より、右が《オオカミになりたい》(2017)

 この展覧会は、水戸芸術館に2021年11月13日(土)〜2022年1月30日(日)の会期で巡回する。

*1──大分県立美術館、水戸芸術館著『佐藤雅晴 尾行─存在の不在/不在の存在』美術出版社、2021年
*2──ジャック・デリダ著、矢崎透訳『留まれ、アテネ』みすず書房、2009年
*3──「オオカミの眼」(BLOCK HOUSE、東京、2017)

編集部

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