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2021.7.19

病とケアと生をめぐる複数の現実。サエボーグ評 中村佑子《サスペンデッド》

港区で開催された「シアターコモンズ ’21」にて、2月にリモート公開とゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センターのリアル会場でのARリモート体験型映画として発表された、中村佑子《サスペンデッド》。病の親を持つ子供の視点から、観客がかつてある家族が住んでいたであろう家を一人ひとり訪ね、二重化された世界を体験する本作について、アーティストのサエボーグが論じる。

文=サエボーグ

中村佑子《サスペンデッド》より
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夢を変えるために

 ユートピアは人工的で、完璧に管理された世界で皆、管理の夢を見ている。どんどん現実の輪郭が迫ってきて、誰かの夢が現実になる。現実を変えないと夢は変わらない。

 合理的な処理のうえで成り立っているハッピーランドからこぼれ落ちてしまった存在がある。中村佑子はそういったうまく可視化されずにいたり、言語化しづらいものにスポットを当てる作家のようにみえる。

中村佑子《サスペンデッド》より

 中村が「シアターコモンズ ’21」で発表した《サスペンデッド》は、作家本人を含む3人の女性の幼少期の体験がもとになっている。それぞれの母親が抱えた病は統合失調症と鬱病という違いはあるが、子供時代の彼女たちが見た場面は驚くほど似ており、いまも世界のどこかで病の親と暮らしている子供たちが家庭のなかで体験する宙吊りの感覚を映像化したものだ。

 よく、統合失調症患者の人が訴える非現実的な妄想の苦しみを、「それは妄想だから」と、あたかもないもののように扱うシーンを見かける。しかし、ある人にとっては妄想にしか見えないものが、紛れもなくその人にとっての現実であり苦しみなのだ。現実と非現実の二項対立としてではなく、異なる複数の現実が並行して存在していると考えるべきだろう。

 フィンランド出身のアーティストであるエイヤ=リサ・アッティラの3面のスクリーンで構成されるヴィデオ・インスタレーション作品《THE HOUSE》(2002)はまさにこのことを視覚化した作品だ。

 3面スクリーンの中で進行する3つの映像では、精神を病んだ状態の女性が、家の中に家畜や車が侵入してきてパニックになり、非常に困難な状況に陥る様子が、現実とのズレを絶妙に提示させながら映し出される。家の中にはさらに周囲の森すらも侵入してきて、その中を空中浮遊するシーンは一見、幻想的で美しくもあるが、彼女は空高く飛び上がってしまわないように、両足首にウエイトを巻き付ける。そんな心配は無用だと鑑賞者は感じるが、この世界を生きる彼女にとっては必要に迫られた行動だ。こういった現実ではあり得ない出来事を、まさにもうひとつの現実として提示することがアッティラの狙いにみえる。

公演風景  撮影=佐藤駿  ©︎ シアターコモンズ ’21  
公演風景  撮影=佐藤駿  ©︎ シアターコモンズ ’21  

 《サスペンデッド》を見たとき、すぐに《THE HOUSE》を思い出した。《サスペンデッド》は本作を撮影した現場である「家」自体がAR映像の視聴会場として使われ、鑑賞者はその家の玄関でARゴーグルを装着し、光の粒子でつくられた導線に誘われながら現実の家で時を過ごし、その家の中で起きた別の時間軸の映像を見る。中村の手法は、アッテラが見せたような「家」の中に、観客を身体ごと取り込むものだ。ARを使用することで、現実の二重性、パラレルワールド感をより強化する。バーチャルだとわかっていても、例えばARの黒い画面が鑑賞者の身体を通り抜けるシーンは、大きな虚無に飲み込まれるようで、非常に怖かった。

VR内映像 ©︎ シアターコモンズ ’21

 現実の時間のなかで宙づりにされ、取り残されている娘と、もうひとつの現実世界に旅立とうとしている母。そんなふたりによる非常に小さな物語だが、誰も否定できない世界がそこにはある。ラストシーンで娘は、もう一度母と同一線上の現実にいるために、もしくは母と過ごしたいちばん幸せだった時間にかえるために、母が好きだったシューベルトの曲をトランペットで吹く。しかしいくら吹いても母との時間が返ってくることはなく、悪い夢の海の中で溺れていくようだ。

 誰にとっての現実か。
 夢のなかで生きているだけのものは“生命”なのか。

中村佑子《サスペンデッド》より

 シューベルトの名曲力と、悲しみに包まれるこのシーンで私は号泣し、涙でゴーグルがグショグショになり、雲って見えなくなってしまった。現実を拡張するARゴーグル装置で、実際の涙を拭けなくなるという問題を感じた。

「さぁ、ここから幸せが始まるんだわ。でも、そうじゃなかった。あの瞬間こそが『幸せ』だったのよ」。

 これは映画『めぐりあう時間たち』(英題:The Hours、監督:スティーブン・ダルドリー、2002)の名台詞だが、本作を見ていると、孤独を抱えた様々な人たちの時間が時を越えて迫ってきて、何重にも交差する。失われた時を求めるかのように、または喪失感を癒すための語り直しとして、あえて幸せな家庭を再演することを選んだ中村の人生の体験は、著書『マザリング 現代の母なる場所』(集英社)に高い解像度で綴られている。とくに最終章は中村が自身の母について書いたもので、《サスペンデッド》へとつながる内容になっている。

VR内映像 ©︎ シアターコモンズ ’21

 本書によると、中村の祖母は1940年に開催予定だった東京オリンピックでメダルを期待されるほどの平泳ぎの選手だったが、日中戦争に突入してオリンピックが開催中止となり、それが叶わなくなったのちに、勉強に打ち込み国家試験第一位で通過して医師になったという、まさにゲッター祖母なような人物だ。中村の母はそのような祖母の期待のなかで育てられ、その祖母のコントロールがどれだけ作用したのかはわからないが、徐々に引き裂かれていった。中村の母は病を理由に誰かをケアする未来も否定され、次第に可能性を失っていく。

中村佑子《サスペンデッド》より

 もしかしたら、誰かのために生きることが、病を吹き飛ばす可能性だってあったのかもしれない。
 自分が誰かをケアすることによって、逆に自分がケアされていることがある。そういう体験ができる瞬間、またはそういう状態に気がつける瞬間は非常に稀だけれども、そのような時に人は人生の奥深さを噛み締めることができるのかもしれない。

 「ただ、生きていてほしい──。」 
 『マザリング』の帯文にはこう書かれているが、誰かの愛がないと生きていけない存在がある。ケアをしたり、または放棄するにせよ、実際、誰かがその人のために祈っている。

*参考文献
杉田敦『ナノ・ソート 現代美学…あるいは現代美術で考察するということ』彩流社、2002年