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10年間の「めちゃくちゃな祈り」。荒木夏実評キュンチョメ個展「ここにいるあなたへ」

ホンマエリとナブチによる二人組アートユニット・キュンチョメの個展が、神奈川県の民家2軒を舞台に3〜4月にかけて開催された。2011年の結成から10年間に制作した、震災に関わる作品のうち16点を展示。キュレーターの荒木夏実が、本展を通して、キュンチョメの震災をテーマにした活動を総覧する。

荒木夏実(キュレーター/東京藝術大学准教授)=文

キュンチョメ個展「ここにいるあなたへ」にて《遠い世界を呼んでいるようだ》(2013)展示風景

死者に届ける声

 2011年3月11日、職場の高層ビルの揺れはなかなか収まらなかった。東京の交通網と通信網は壊滅状態、電車は止まり、電話も繋がらない。当時小学生と保育園児だった息子二人と連絡が取れず、不安で心が押しつぶされそうだった。幸い隣人が迎えに行って家に泊めてくれたのだが、電車の復旧後にようやく帰宅できたのは、私も夫も深夜近くだった。その日は帰宅困難者が街に溢れていた。

 それはテクノロジーに依存する都市生活の脆弱さを思い知らされた出来事だった。インフラが途絶えた途端、大事な我が子を守ることもままならない。そのショックは転職を考えるほど大きかったのだが、当時この話を公にすることは憚られた。なぜならメディアを通して見る東北の被害は想像を絶するほどで、あまりにも多くの人の命が奪われていたから。さらに福島の原発事故は、リスクを地方に負わせて利益を享受する都市の姿を露骨に示すものだった。自分の受けた痛みと比べようがないほどの傷を前に、罪の意識が拭えなかった。

  東日本大震災から10年を迎える今年、震災にどう対峙するか戸惑いを感じていた私にとって、キュンチョメによる個展「ここにいるあなたへ」を見ることができたのは幸いだった。住宅地の民家を使って行われた16作品の展示を、一部屋一部屋を訪れてじっくり鑑賞した。

避難指示区域にタイムカプセルを埋めに行く 2011
《避難指示区域にタイムカプセルを埋めに行く》(2011)展示風景

  ホンマエリとナブチの二人は、東日本大震災をきっかけにキュンチョメとしての活動を始めた。震災後すぐにいてもたってもいられなくなり、被災地に赴いて制作した作品が《避難指示区域にタイムカプセルを埋めに行く》(2011)だ。立入禁止区域になる場所にパーティーグッズを入れたタイムカプセルを埋め、放射能の心配がなくなる日が来たら掘り出してパーティーをするいう趣旨である。キュンチョメはこれを「作品というより衝動」だと語っている(*1)。

遠い世界を呼んでいるようだ 2013

 その2年後、時が止まったように瓦礫が残り、荒れ果てた被災地でホンマは遠吠えする。震災で電気や電話も通じなくなったとき、人はコミュニケーション不全に陥った。動物なら技術に頼らずとも仲間を呼び合うことができるのに。人間の退化と非力さを痛感したキュンチョメは、野生を取り戻すために専門家から狼の鳴き声を習い、被災地へと向かった。人気のない家の中で、打ち捨てられた温室で、無惨に積み重ねられた車の上で、電柱が倒れた駅のホームで、ホンマの吠え声が切なく響く。

《人という字は》(2013)展示風景

 被災地の瓦礫を歩きながら、赤色のスプレー塗料でひたすら「人」という文字を書いていく映像《人という字は》(2013)。ホンマは「人という字は人と人が支え合ってできている」という言葉を繰り返す。その声は、持ち主を失った車や家の残骸のなかで虚しく響く。時が止まったような被災地の現状を「人」はどれだけ想像できるだろうか。絶望する人を支えることができるのだろうか。

《空蝉Crush》(2017)展示風景

 震災から7年経った石巻で制作した《空蝉Crush》(2017)では、地中で7年を過ごす蝉の時間と人間の時間が重ね合わされている。鏡の上に置かれた蝉の抜け殻。それを石巻の人々が「生まれ変わったら〇〇になりたい」と言いながら手で潰していく。鏡に映った青空をバックにした抜け殻とその鏡像が幻想的で、バロック絵画のような劇的なイメージをつくっている。しかし「あの世」を思わせるこの光景は、人の手が現れて抜け殻を潰す瞬間に破壊され、現実に引き戻される。大人も子供も楽しそうに輪廻転生の望みを口にしながら、願掛けするように抜け殻を潰す。乾いた音を立てて抜け殻が粉々になる。

ナマズ君の誓い 2012

 吠える、唱える、願掛けする。キュンチョメの作品の多くに人の声が繰り返し使われている。鯰を放流して2度と地震が起きないことを願う《ナマズ君の誓い》(2012)でも、逃した鯰に向かってナブチが「生き延びろよー!」と叫び続けている。彼らは一体誰に向かって声をかけているのだろうか。

 キュンチョメは被災地に関連した作品について「アートというより行為」だと述べる。それは死者との交流であり、死者への通信行為だと(*2)。やむにやまれぬ衝動を発端とし、着地点を想定せずに、発表できるか否かは考えずにアクトする。キュンチョメが言う「魂と魂のコミュニケーション」(*3)は、死者と生者、被災者と非被災者、東北と東京、自然と人間とを結びつける。

 不謹慎にも思えるキュンチョメの行為についてホンマは語る。

 私の祈りは自己中心的で、無謀で、怒りに満ちていました。めちゃくちゃかもしれません。でも、あの震災はめちゃくちゃだったんです。だから、めちゃくちゃな祈りが必要だったのです。そしてそれは10年経った今も変わりません。(*4)

 キュンチョメの喉を通って発せられる声は、魂と魂を結ぶ媒体であり、祈りなのだ。

「自分は当事者ではないから震災について表現する資格がない」と悩む芸大生の声に対してホンマはこう語る。「自分は当事者なのか、そうではないのか、当事者でないと行動してはいけないのか、そんなふうに迷ってるうちに切実さを逃してしまう」(*5)。被災地でも当事者のグラデーションがあるという。身内を亡くした人、家が倒壊した人、災害時に現地にいなかった人。その差によって被災地の間で遠慮や我慢、罪悪感が生じていることは2011年当時も話題になっていた。しかし、迷いと戸惑いのうちに起こった事象に向き合うことを避け、結果的にそれが忘却されてしまうこと、なかったことにされることこそが一番の悲劇ではないだろうか。アーティストである以前に行為者であるキュンチョメが、自身の魂に従って迷わず行動することは正しい。決して「ニュートラル」ではない彼らの行為を通して、私たちは報道では不可能な死者との交流や鎮魂を体験し、10年後にあの日を振り返ることができるのだ。

 10年前、東京の揺れるビルのフロアで私が体験したショックと不安は、我が子への思いは、「当事者」としての気持ちだった。それはいまだに傷として私の心に残っている。それを偽りなく受け止めることが「ここにいる私」にとって必要なことだ。そして私も被災地に思いを馳せて祈りたい。死者たちに声を届けながら。

 *1──東京藝術大学にて2021年5月19日に開催された、キュンチョメによるレクチャーでの発言より
*2──同上
*3──同上
*4──キュンチョメ個展「ここにいるあなたへ」プレスリリース
*5──前掲レクチャーでの発言より

編集部

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