〈殻/空・だ〉としての甕
展示室には大人の体がすっぽりと入りそうなほど大きい甕が、ぽっかりとした空洞を覗かせて置かれている。こんなに大きい甕は見たことがない。なんのためにつくられたものだろう。そしてこれら“神々”ならぬ“甕々”が声を発するとしたら、それはどのようなものだろう。
そこに並ぶ大甕は、日本六古窯のひとつ愛知県常滑産で、古いものでは江戸時代から大正時代にかけてつくられており、大半は昭和初期から1945年にかけて制作されている。その用途は、江戸・大正・昭和初期のものは貯蔵容器、そして甕のおよそ半数を占める1945年製のものはすべて耐酸炻器とある(*1)。1945年といえば、もちろん終戦の年である。聞き慣れない耐酸炻器とは、終戦間際に計画された幻のロケット戦闘機「秋水」の液体燃料の製造・保管のためにつくられた、通称「呂号甕」のことであった。「秋水」は、陸軍と海軍の命により、本土を空襲から守るため戦争末期に計画されたロケット戦闘機である。この戦闘機は、B29などの米軍の爆撃機と同じ高度まで一気に飛行し迎撃すべく、1945年9月までに数千機がつくられる予定だった。石油に頼らず、過酸化水素等で自製できる燃料を使用するため、耐酸の大甕が必要だったのである。しかし、いま目の前にこんなに甕が残っているにもかかわらず、結局この計画が実現されることはなかった。衝撃を受ければ壊れてしまう陶製の燃料容器は、和紙とコンニャク糊で気球部分ができた風船爆弾や、陶器製の手榴弾や地雷の陶器爆弾をどこか連想させる。この大甕も、資材不足のなかでの無謀な試みだったのだろうか。
終戦後、大半は廃棄されたが、その後、水甕など別の用途で使用され、いまでも常滑の街に佇んでいる姿をみることができるという。1945年製の甕同士を比べてみると、それぞれ胴体の膨らみが微妙に異なっており、規格品のように型で成形されていないことがわかる。どうやらそれは、その大きさにもかかわらず、人力でつくられたようなのだ。横たわる大甕を前に、敗戦が迫るなか、汗水垂らしてこれをつくった人々とその体のことを想った。
大正から昭和初期にかけてつくられた甕のいくつかは、土葬が行われていた時代に棺桶として使われていた可能性があるという。甕とともに鎮座している大正時代の黒い土管は、汚水処理用のものであった。陶器は、日々の生活でなんらかの用途に供するためにつくられる。この何も気取ったところのない甕や土管は、人の生に伴う水の保管や排水・排泄処理のため、さらには戦争や死に応じてつくられたものだった。それらは、鉄やステンレス等の素材が持つ堅さや冷たさとは異なり、手の跡のわずかに残るその形、釉の塗り方や温度差による薄茶のグラデーションが、どこか人の生活に近い温かみを感じさせる。だからこそ、終戦間際に製造された「呂号甕」は、悲しみやおかしみ、やるせなさの入り混じった複雑な感情を抱かせる。たしかにこの甕たちは、何か言いたげなのである。
甕の内側にはマイクが設置されていて、微かな音を拾って反響したノイズが、隣室に吊り下げられたスピーカーから流れている。電気のない時代、能舞台でスピーカー代わりに使われていたというだけあって、甕の拡音作用はなかなかである。しかしそのゴーとかコォーという音は、くぐもって響いてなんの音なのかはっきりとはわからない。
「体」の語源は、はるか昔に魂に対してそれを宿したものを「殻・だ」といったことから来ているという。「殻・だ」は、「空・だ」でもある。人体と同じくらいの大きさで内側に「空」を抱えた「殻」としての甕は、人間の身体の比喩となる。その「空」に響いていたのは、当時それをつくった人たちの声なき声だろうか。ある人は国のためにと精魂込めてそれをつくったに違いないし、またある人は虚しさをひたすら隠して挺身しているかのごとくに振舞っていたに違いない。この時代には、自らの声を自由に発することができなかった。甕の音は、内側の虚ろな、しかし意外にきれいな響きとして聴こえてきた。
私たちは、自らの運命を完全に決定することができないまま、否応なしに歴史のなかに投げ込まれている。そのただなかで、いまがどんな時代なのかと客観的に判断することは、とても難しい。私たちは、いわば「空」を抱えた受け身の器のようなものである。その「空」は、外界の風や音に応じて、左にも右にも容易に傾いて反響する。古代ギリシャでは、「神々」が思考に変わる位置を占めており、人々は「神々」が命じる通りに生きているとされた。私たちは「神々」のような大それたものではなく、「甕々」である。その体は、内側に「空」を抱えた器である。しかし自動的な受動の器になることなく、この「空」をどんなふうに倫理的かつ創造的に活かし、満たすことができるだろうか。どこか温かみを感じさせる「甕々」を眺め、その内側の音を聴いているうち、そんなことを考えた。
会場のアートラボあいちのある建物の1階には、「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」があり、会期中に資料館が収蔵するずっと小振りの「呂号甕」が展示されていた。本格的な戦争資料館の実現が困難な日本で、ここは小さいながらもこの地の戦争や戦時中の人々の生活を伝えてきた。常滑製のタイルで装飾された、昭和初期の表現主義風の建物での展示は、「戦争に関する資料館」とも接続する、まさにサイトスペシフィックなものであった。本企画は、コロナ禍におけるアーティスト等緊急支援事業として愛知県が開催した「AICHI⇆ONLINE」の一貫として行われた。期間中、アートだけでなく、文学、音楽、映画、演劇におよぶ展示やイベントが、愛知県内各所と連携しつつオンラインで展開されていた。それは、オンライン上の試みを多分野で様々に模索した、心楽しむものであった。そのなかでも、甕の音をネット上で配信し実際の展示も行う、オンラインとオンサイトに跨る展開は本展のみであった。決して大きくない展示室によくぞこれだけと感嘆させられる「甕々」の眺めは、やはり現実の場に身を置き直接身体で反応することの重要性を、改めて認識させる力があった。
*1──「『甕々の声』出展 甕・土管リスト」参照