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現実世界を再認識するための絵画。中島水緒評 諏訪未知個展「3つの世界」

身の回りにある物事や現象を掬い取り、絵画空間に再構築する諏訪未知。KAYOKOYUKIにて開催された個展「3つの世界」で展開された、統一されたフォーマットによる抽象絵画の作品世界を、美術批評家の中島水緒がレビューする。

文=中島水緒

展示風景 撮影=岡野圭Courtesy of the artist and KAYOKOYUKI

回転がもたらす転回

 あらゆる絵画には正位置がある。上下逆の図像が描かれたゲオルグ・バゼリッツの逆さま絵画にせよ、すべての面が均質な塗りで覆われたアド・ラインハートの幾何学抽象にせよ、基本的に絵画は天地を守って展示されること、しかるべき視点から行儀よく眺められることを要求する直立歩行者のための芸術形式だ。

 KAYOKOYUKIで開催された諏訪未知の個展「3つの世界」を訪れた際、これらの絵画作品に正位置はあるのだろうか、と素朴な疑問を持った。というのも、展示されたすべての絵画作品が正方形のフォーマットに統一されていて、幾何学的もしくは装飾的な形象が画面の等方性を保持するかたちで配されていたからだ。

展示風景。左から《3 ✕ 3》、《天動説》、《5回目の成功》(すべて2020)
撮影=岡野圭 Courtesy of the artist and KAYOKOYUKI

 正方形、それは本来、絶対的な均衡を維持するリゴリスティックな形態である。すべての辺が等しいというのはつまり、どの辺もアドバンテージを持たずに力を拮抗させている静止状態を意味する。他方で、諏訪の絵画は正方形のフォーマットの画一性をあまり感じさせない。抽象的な形象を反復させた画面は、その内部に生じる流れ、張力、リズムといった様々な力学のバリエーションにより、正方形の画枠の生真面目をそれとなくゆるめているのだ。諏訪の絵画を見ながら、頭のなかでその画面をくるくる回したくなる感覚にとらわれた人はきっと少なくないだろう。360度の全方位に向けた眺望の解放。もちろん諏訪の絵画とて、正位置をほんとうに持たないわけではない。だがこれらの画面は、どの辺からの眺めも受け入れる等方性をある程度まで確保することによって、ひとつの視点に縛られない空間把握の可能性を多方面に展延するのだ。それは、プールを背泳ぎしながら見る空が、泳ぎの進行方向とは無縁の広がりとして、いつもと違う相貌で感得される体験に近いかもしれない。

 だから、このレビューの初めの一文は次のように書き換えなければならない。あらゆる絵画に正位置があるという不文律は、諏訪の絵画においては具体的な鑑賞のなかでクエスチョンマークを付されるのだ、と。

 このことを確認するためにいくつかの作品を見ていこう。今回の出品作のなかでは大きめのサイズに分類される《島》(2020)。波打ったストロークによる断面図のような形象が4つ、ピンクの地の上に描かれている。4つの形象は追いかけっこをするような向きで配されており、見る者の頭のなかに心的回転(メンタルローテーション)を引き起こす。個展タイトル「3つの世界」はエッシャーの同名作品に由来するそうだが、《島》はむしろ、上っているつもりがいつのまにか下りにつながってしまうエッシャーのあの有名な無限階段を連想させる。いくら追いかけっこを延々と続けても階が上がることはない。そんな印象をエッシャー以上に抱かせるのは、《島》の平面的でチープな塗りが上昇・下降の感覚を引き起こすいっさいの奥行きを抑制しているからだろう。

島 2020 キャンバスに油彩 65.2✕65.2cm
Courtesy of the artist and KAYOKOYUKI

 回転運動を誘発するモーメントは《天動説》(2020)にも内在する。《島》ほどの明快な運動性はないが、青、オレンジ、黄緑、ピンクの矩形が囲いをつくり、旋回する視線の流れを微々たるレベルで準備していることが確認できる。さらに、矩形の囲いは二重化されており、外側の部分には白の絵具層がヴェールのように薄くかぶさっていて、内/外の囲いを分かつジグザグ線が開口部を演出する。内の矩形と外の矩形の二重性のみならず、ここには被覆するものと裂開するものの二重性がある。作品タイトル《天動説》と照らし合わせて考えるならば、本作の画面構造は「動いているのが天なのか地なのか、ほんとうのところを人間は知ることができない」という認識の不安定さ、情報として知っていることと体感として得られることの分裂という問題をはらんでいる。

天動説 2020 キャンバスに油彩 65.2✕65.2cm
Courtesy of the artist and KAYOKOYUKI

 小ぶりのサイズによる《対岸》(2020)。画面中央の張力をたたえたテントのような形象は、はたして図なのか地なのか。色彩がもたらす換喩的作用を素直に受け取るならば、黄土色の面は陸地的な空間を表象しているようにも見える。しかしここで重要なのはルビンの壺のような古典的錯視がもたらす図と地の単純な反転可能性ではなく、《対岸》というタイトルに端的に示される空間認識の相対性だろう。対岸とはつねに「こちら側」にとっての「あちら側」であり、概念としては相対的であることを思い起こしておこう。つまり諏訪の《対岸》は、画面のヘリに張力を分散させた画面構成において、対岸的(もしくは非−対岸的)な形象を「こちら側」でも「あちら側」でもない相対的な関係でのみ観測させるのだ。すべての辺が別の辺にとっての対岸となりうるという意味で、《対岸》は純然たる概念としての対岸を空間化した作品と言えるのではないか。

対岸 2020 キャンバスに油彩 27.3✕27.3cm
Courtesy of the artist and KAYOKOYUKI

 諏訪の制作は「自分の足元を見下ろす視点から始まる」と言う(*)。自分の身体感覚に立脚した現実の観察からはじめること、それが画家にとって制作の第一の基盤となるのだ。そして、現実の観察から得られた体感と認識は、異なる領域と領域をなだらかに連係する。これは、島、対岸といった主題が単数ではなく複数の領域(陸地)を扱うこと、《天動説》が天と地の関係を問う作品であることからも明白だ。地に属するもの、空に属するもの、海に属するものが諏訪の絵画空間を循環して「世界像らしきもの」をつくっている。

 そういえば、ギャラリーの入り口脇には《ハタ》(2020)と題された凧(カイト)を主題とする小品が飾ってあった。地上と空をつなぐ凧もまた、媒介的性質を担うモチーフとして再発見されなければならない。《ハタ》は一見するとモノクロームの色面にいくつかの弧線が引かれただけのシンプルな抽象画だが、もしここに描かれているものを文字通りの凧とみなし、空にはためく凧の外形と正方形の画枠の擬似的一致を認めるならば、正方形の画枠の外は仰ぎ見られた空へと通じ、四辺が無辺へと転回する契機を途端に秘め出すのだ。ささやかな画枠のなかで行われる実験、シンプルな形象の紡ぐ(隠喩ではない)直喩こそが、「絵画は絵画である」という同語反復の場に鑑賞者を係留する。ここに、一周回って着地したまぎれもない現実がある。私たちは諏訪の絵画を通じていくつかの世界を回遊し、いま、この絵を見ているという確かな感触に帰る。

*──KAYOKOYUKIが発表したプレスリリースを参照。

展示風景。2点とも、《ハタ》(2020)
撮影=岡野圭 Courtesy of the artist and KAYOKOYUKI

編集部

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