• HOME
  • MAGAZINE
  • REVIEW
  • 虚構へと向かう世界への応答。飯岡陸評 Ryu Ika展「T…
2020.9.29

虚構へと向かう世界への応答。飯岡陸評 Ryu Ika展「The Second Seeing」

現実世界を舞台に見立て、空虚に感じるその理由に迫ろうとした「Big Brother is Watching you」で「1_WALL」のグランプリを獲得したRyu Ika(劉怡嘉)の受賞展がガーディアン・ガーデンにて開催された。内モンゴルで生まれ育ったRyuの作品世界で表される、イメージのなかで生きる私たちについて、キュレーターの飯岡陸がレビューする。

文=飯岡陸

無題 2019
前へ
次へ

抵抗としての私

 写真をレイアウトした出力紙が床まで垂れ下がり、壁を覆っている。ほとんどがフラッシュをたいて撮影された写真で、コントラスト高く印刷されている。漆黒、湿った肌、屠殺場の豚の姿や写真の表面を覆う肌理に胸が騒ぐ。青空や夕焼け、造花のひまわりやプラスチック製品が、人工的な鮮やかさをもってこちらに迫る。

 空間の逆側には、両目だけがこちらを向くように大量のポートレートが丸められ、天井高くまで積まれている。会場の中央近くに置かれた2台のモニターには、鑑賞者自身の後頭部がWEBカメラを通して映し出される。本展にいたる公募展に提出したシリーズの名前が「Big Brother is Watching you」であったことを思い起こす。

展示風景
展示風景

 Ryu Ika(劉怡嘉)は中国内モンゴル自治区で生まれ育った。幼少期からTVばかり見ていたというRyuは、日本のバラエティ番組に憧れを持ち、TV制作に携わろうと来日する。到着してすぐに、画面のなかの喜怒哀楽に満ちた日本の姿と、感情を表に出さない社会とのギャップに驚いたという。いまでも満員電車に乗り込むスーツの人々はフィクションではないかと感じていると笑いながら話す。

 こうした来日にいたるまでのエピソードは、トランスナショナルに流通するフィクションが、ひとつの現実のように機能していることを実感させる(*)。グローバル文化研究においてしばしばYouTube、海賊版DVD、Netflixなどの流通網に注意が向けられるように、イメージは国境だけでなく、虚構と現実の境界を超える(例えば、筆者が多くの観客と同じように半信半疑で見始めた、心動かされる『愛の不時着』はその顕著な具体例となるだろう)。Ryuはイメージに誘われ旅客機に乗り込み、そしてイメージの世界に降り立ったのかもしれない。

 ステイトメントにおいてRyuは、私たちが(実際に見られていなかったとしても)人々にどう見られているかを意識し、そのイメージのなかで自分自身を演じて生きていることについて言及している。展示室のWEBカメラや本展のタイトル「The Second Seeing」は、私たちがその視覚の奥にある、内面化された他者による「第2の視覚」のなかに生きていることを強調する。私たちの人生もまたイメージと地続きであり、人々は「役者」に、世界は「舞台」になぞらえられる。

展示風景
展示風景

 その後、武蔵野美術大学の映像学科に進学したRyuは、チームワークや語学力を求められる映像制作ではなく、暗室の授業に没頭するようになる。先生に紹介してもらった森山大道や志賀理江子、内藤正敏らの写真集を見たときのことをこう回顧する。「写真が喋ってるように見えた。それだ!それがコミュニケーションだ!(中略)写真があるからやっとテレビのモニターの世界から脱出できて、自分の人生を持つようになった」(展覧会会場のハンドアウトより)。こうしてRyuはイメージに介入し、世界とコミニュケーションする術を手にする。不穏な空気を感じさせる写真群に通底しているのは、じつは世界と関わることのできる喜びである。

 ゆえにRyuはカメラを通して対象を写し取るだけに満足しない。生まれ育った内モンゴルや留学先の日本やパリ、旅行先のエジプトで撮影した写真にスナップ的要素──不意に出会った状況、意味未満の身振り、半目の瞬間、非正面からの構図──を見て取ることができるだろう。しかし同時にその半分ほどが、アーティストが状況をつくり出したり、被写体に手を加えたりして撮影したものである。またトリミングを施す、隣り合う図像やモチーフの反復を注意深く構成する、ノイズや細部を強調するなど、Ryuの舞台はイメージの操作に満ちている。

 これらは「写真は真実だ」「写真は虚構だ」という引き裂かれたふたつの態度から構成されたアンビバレスな混合物なのだ。いっぽうでは肉体や粘膜、汗や血、動物の死体といった要素が世界の生々しさに触れる(=嘘の真実らしさ)。他方で造花や仮設のプール、人工芝による地形、児童用の遊具などをとらえ、世界は偽物だと憂う(=虚構の世界という真実)。こうした強いコントラストによる摩擦が、撮影者の写真的な感覚と、その操作の手触りを同時に伝える。

無題 2020
無題 2018

 Ryuは会場で配布しているテキストにおいて、写真はまったく透明のものではないと、写真を撮影し、コンピュータによって編集し、出力紙に出力し、観客の眼前に届けるまでのプロセスに介在する私の操作=「我」を杭のように打ち込んでみせる。「風景を紙に再現したと思われるのに気が済まないというか、その現実からデータ、データから現実のプロセスのなかに『我』がいる(中略)それを無視したくない、無視されたくないと世のなかに伝えたい」。

 あるがままの写真などありえない。人はイメージのなかを生きている。それらは繰り返されてきた常套句かもしれない。しかしRyu Ikaは、それを操作する「私」の実感を噛みしめるように写真と向きあい、より虚構へと向かいつつあるこの世界に抵抗している。

*──例えば下記の議論がある。アルジュン・アパデュライ『さまよえる近代―グローバル化の文化研究』(門田健一訳、平凡社、2004)