匂いの風景
「地球はレモンのように青い」という印象的な言葉は、廣瀬智央の作品《地球はオレンジの実のように青い》(2017(2008))から転じてつけられているのだろう。庭先になった金柑の実を地球と見立てた写真作品である。この作品名は、ダダイスムとシュルレアリスムを牽引したポール・エリュアールの詩の冒頭の一節から引かれている。
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©Satoshi Hirose , Courtesy of Tomio Koyama Gallery / Koyama Art Projects
地球、そして金柑のほかにも廣瀬の作品には多くの「球体」が登場する。豆、じゃがいも、スポンジボール、ガラス球、鉄球、土の団子、地図や新聞を丸めたもの。それらはしばしば天体もしくは小宇宙を彷彿とさせるように並べられている。ささやかな身近なものと宇宙を繋ぐパースペクティブ。そこには慎ましくも詩的な多幸感がひろがっている。
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ガラスビーズ、モミジバフウの実 撮影=木暮伸也
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さて、本展の見どころとも言える《レモンプロジェクト 03》(2020(1997))では、これも一つの球体であるレモンが約3万個、展示室いっぱいに敷き詰められていた。壁と床はレモン色で塗られている。膨大な数のレモンの鮮烈な印象に圧倒される。アーツ前橋の特徴的な大きな吹き抜けに設置されており、その香りは吹き抜けの上まで広がっていた。
ミラノを拠点とする廣瀬は、初めてイタリアを訪れた際、あたり一面のレモン畑を見て感銘を受けたことから、作品にレモンを用いるようになったという。
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レモン、ガラス、ステンレス、ペイント、エッセンシャルレモンオイル 撮影=木暮伸也
注目すべきは、その「香り」であろう。大量のレモンから立ち上る心地よい芳香は、観客を歓喜させていた。
この香りは実物のレモンからのみではなく、レモンから抽出された精油を定期的に散布することで生み出されている。このような香りの混在について、展覧会リーフレットには「自然と人工の両極を行き来して、世界の複雑さの一端に触れることになる」(*1)というが、その意図が成功しているかどうかは判断が分かれるだろう。
だが、廣瀬が「匂い」を展示室に持ち込んだ点は、改めて評価されるべきだろう。ほかの作品でも、タイのチェンマイでの滞在制作の経験からターメリックが使われたほか、唐辛子、ローズマリー、蜜蝋などが作品に持ち込まれ、私たちの嗅覚を刺激する。それは、視覚表現優位のアートとは異なる鑑賞体験を私たちに与えてくれる。
現代人の多くが、日々スマホやパソコンの液晶と向き合い、視神経を酷使している。私たちのコミュニケーションは視覚に偏重しがちであり、アート作品も例外ではない。視覚に比べると、嗅覚の情報は記述や伝達が難しいが、匂いは私たちの本能に働きかけ、感情を揺さぶる力がある(*2)。廣瀬の作品を鑑賞することで、退化した感覚器官が呼び覚まされるような経験を得た。
また、廣瀬は「異なる文化間を移動することで、見えてくる文化や生活習慣の違いや相似性は、いつも大きな刺激となり」(*3)とも語っている。旅をすることで、風土や食文化などの違いによって生じる異なった匂いの勾配/アレンジメントに私たちは遭遇する。旅をせずとも、摂取する食物によって体臭が変化することを実感する場合もある。感覚を研ぎ澄ませることで、空気中に漂う分子が多様に広がる「嗅覚の風景」と呼べるものを立ち上げることもできるはずだ。
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中央が《ペペロンチーノの家(レッド、グリーン、イエロー)》(すべて2004) 撮影=木暮伸也
このように本展は展覧会として非常に成功していると言えるが、最後にあえて1点だけ指摘しておきたい。
《レモンプロジェクト 03》は1997年にザ・ギンザ・アートスペースで初めて発表された。今回、23年ぶりの再制作にあたり、3万個のレモンは会期後に石鹸や紙に再生するという「物質の循環にも目を向ける新たな試みを加え」(*4)られた。
「循環」に目を向けると、食物の大量生産(単一作物の大量生産は環境負荷が大きい)や輸入システムについても考えてしまう。たとえば、輸入レモンに防カビ剤・防腐剤などが大量に使用されていることは、問題視されてきた。廣瀬がイタリアで見た一面のレモン畑は、美しく芳しい光景であったに違いないが、レモンの量の過剰さによって美しい光景をつくることと、大量生産が孕む諸問題の交錯に思いを馳せた。
*1──「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」展覧会リーフレット、p.5
*2── 廣瀬清一『香りをたずねて』コロナ社、1995年
*3──「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」展覧会リーフレット、p.1
*4──アーツ前橋ウェブサイト https://www.artsmaebashi.jp/?p=14546