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羅針盤のない世界を、どう歩くか。山本浩貴評「In a Grove」展

LEESAYA(東京・下目黒)にて、髙橋銑、二藤建人、宮原嵩広によるグループ展「In a Grove」が開催。先が見えない状況のなかで、作品を通して世界を実感し、正確にとらえることを試みる本展を、文化研究者の山本浩貴がレビューする。

文=山本浩貴

展示風景より。中央は二藤建人《人間、浮動する藪》(2020) Photo by Ichiro Mishima Courtesy of LEESAYA

Still deep in a grove

 いきなり私事で恐縮だが、筆者は30歳になるまでスマートフォンを手にしたことがなかった。20代の大半を過ごしたロンドンでは、最寄り駅からの大まかなルートを記したメモを片手に美術館やギャラリーを巡った。不思議なことに、迷うことはほとんどなかった。日本に帰国してスマホを持つようになると、現在地から目的地までの最短経路を瞬時に提案する機能の便利さに驚いた。それからしばらくして、最近、スマホを家に忘れたまま外出したことがあった。駅からの道のりをメモした紙を頼りに歩を進めたが、信じられないほど目的地が遠く感じられた。

 下目黒にある現代美術ギャラリー、LEESAYAでのグループ展「In a Grove」は、ギャラリスト・李沙耶の呼びかけに3人のアーティスト(髙橋銑、二藤建人、宮原嵩広)が各々の仕方で応えるかたちで成立している。タイトルの「in a grove」は「(真相は)藪の中」という慣用句に由来する。1922年に発表された芥川龍之介の同名小説に起源を持つこの慣用句は、関係者の認識が食い違って物事の真実が明らかにならない状態を表し、誰の証言を信用すべきかわからないことの比喩として使われる。

 言うまでもなく、本展の背後には新型コロナウイルス感染症というコンテクストが存在する。ギャラリーのウェブサイトには、展覧会に寄せて次のような問いかけが掲載されている。「我々は日常的に様々なデバイスを使い、大量の情報を受け流しています。忙しない現代人にとって、実際にその場所に赴き、目で見て、匂いを嗅ぎ、音を聴き、肌で空気を感じることはとても難しくなりました。コロナ禍では一層それ自体が貴重で尊いものだと我々は痛感しました。要するに、私たちは「本当のところ」どうだったか、ということをほとんど知らずに過ごしているのではないでしょうか」。

髙橋銑 小さい頃はかみさまがいて 2020 Photo by Ichiro Mishima Courtesy of LEESAYA

 コロナ禍という非常事態に際して世界中の学者や知識人が反応を示し、自らの考えを公にしてきた。しかし、毎日のように生産される言説にもかかわらず、いや、まさにその過剰ゆえに私たちは方向感覚を失って呆然としている。彫刻専門の修復活動も行う髙橋銑の《小さい頃はかみさまがいて》(2020)は、こうした困惑を鋭くとらえているように思われる。髙橋は水飴で笛をつくり、それを吹き続けるパフォーマンスをした。水飴でできた笛は徐々に溶け、やがてかすかな音しか聞こえなくなる。会場では、このパフォーマンスの音声データを内蔵した水飴の笛(再制作)が作品として展示された。羊の群れを先導する牧人よろしく、笛は大衆を導く絶対的指針の象徴として用いられている。その絶対性が消失していく様を、鑑賞者は聴覚を通じて把握する。

宮原嵩広の展示風景 Photo by Ichiro Mishima Courtesy of LEESAYA

 日々更新されるデータとしての視覚情報にあふれる私たちの社会において、目に見るものだけが真実ではないことは忘却されがちである。そのことに警鐘を鳴らしているように思われるのが、専門学校で特殊メイクを学んだ経験もある宮原嵩広の一連の作品だ。《Venus》(2020)など「black 3.0」という特殊な塗料を用いたオブジェは、鑑賞者の視覚をひどく混乱させる。たしかな奥行きを備えた立体であるはずが、光をほとんど反射しないその塗料の性質のため、遠くからはのっぺりした平面のように見える。深みや複雑さを捨象して物事を理解しようとしがちな私たちの目が、批判的に戯画化されているようでもある。

 冒頭の私的なエピソードに戻る。その経験を通して筆者が再認識したのは、人間の身体感覚がいかに急速に鈍磨していくかであった。スマホの機械的ガイダンスに慣れてしまった身体は、もはや以前のように「なんとなく」目的地に漂着することはできなくなっていた。

二藤建人 人間、浮動する藪(部分) 2020 Photo by Ichiro Mishima Courtesy of LEESAYA

 そうしたことに思い至ったとき、会場の入口付近に設置され、当初はどことなく「浮いている」ように見えた二藤建人の《人間、浮動する藪》(2020)がにわかに重要な意味を帯びてきた。土の山に裸で体当たりした痕跡を含む《反転の山》(2013)など、二藤は自らの身体を代替不可能なメディウムとして制作してきた。この作品でも、石膏を染み込ませた麻を自らの身体を媒体にして直立させ、重力に逆らって屹立する彫刻をつくり上げた。その基盤は作家本人が寝転がった上に固着させたものであり、臀部の形状などがくっきりと刻印されている。髙橋や宮原が可視化したコロナ禍での社会の不確定性を承け、二藤はそうした状況における身体感覚の不可欠さを示唆しているようだ。

 このレビューを書いているときに、頭をよぎった対談がある。国民的棋士の羽生善治と伝説のチェス・プレイヤー、ガルリ・カスパロフのあいだで2015年になされたものだ。長きにわたり世界王者の地位を保持し続けたカスパロフは、1990年代後半に人類代表としてスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」の挑戦を受け、敗れた。それから20年近く経ち、「コンピュータは人類を凌駕したか」と問われた彼はおおよそ次のように述べた(ように記憶している)。確実な計算が可能な場面では人間は機械に敵わないが、不確実な環境では人間の直感が物を言う。確率が「40対60」の状況下で直感を頼りに、あえて「40」を選ぶことができるのが人間の強みであると。

 私たちは「いまだに深い藪の中(still deep in a grove)」にいる。安易な脱出法はおそらくない。普遍的な羅針盤を喪失した世界で、いつの日か「40」を選択することが必要になるかもしれない。その瞬間に備えて、私たちは身体感覚を研ぎ澄ましておかなくてはならない。「In a Grove」展は、改めてそのことを思い起こさせてくれた。

編集部

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