エコ/システムとしてのアートは可能か?
東京・根津に今年度新しくオープンしたキュラトリアル・スペース「The 5th Floor」にて開催された、渡辺志桜里と渡邊慎二郎の2名による「Dyadic Stem」展は、非人間の諸存在たちが生み出す環境を示すシステマチックなインスタレーションを提示する。もともと社員寮として使用されていた建物を改装したスペースであるため、501号室、502号室、503号室、バルコニーと、部屋の構造が分かれていることが特徴的であるが、本展においてはそうした別々のスペースがひとつの循環する生態系のなかで結び付けられている。
まず、全体の基礎となるのが、渡辺による全スペースを循環するインスタレーション《サンルーム》である。ウォーターバルーン(501号室)、金魚の入った水槽(502号室)、食用野菜を育てる水耕栽培システム(503号室)、そしてバルコニーに設置された雨水を溜める大型のたらいが、ホースやアクリルチューブによって連結され、その中を水が循環する。天候の状況によりウォーターバルーンは収縮し、そこから水槽へと流れた水が金魚の排泄物を含んで肥料となり、水耕栽培の食用植物を育てる。さらに水は外部のたらいへと流れ、そこで雨水と混ざり合いながら、再びバルーンへと流れ込む。
この作品は、時折作家による調整を必要とするものの、雨が一定で降る限りでは、基本的に水が循環し続ける自律したシステムである。加えて、501号室の部屋の窓を取り外し、そこにテーブルを設置した《鳩を待つ食卓》は、窓枠の外に突き出したテーブルに米をまくことで、鳩と人間が同じ食卓を共有することを夢想する作品である(*1)。これは、循環する作品を完全に閉鎖的にすることを避けるため、対極にある野外の雨水を取り込むたらいと同様に、システム外部に向かう開口部の役割を果たしている、という(*2)。
そして、このインスタレーションのシステムに対する渡邊の作品の関与が本展をさらに複雑にする。渡邊による《Get water》は、上述した金魚の水槽にハイドロフォン(水中マイク)を入れ、その音をリアルタイムに変換・拡張する。502号室を満たすこのサウンドは、鑑賞者に向けてというよりも、スピーカーの前に置かれたクワズイモに向けられている。また、光屈性と呼ばれる光のあたる方向へと葉の向きを変える性質と、余剰水分を調節するため葉先から水滴を出すクワズイモの習性を利用して、植物によるドローイング《根 茎 葉 水》の生成プロセスが展示されている。
同時に会場入り口部分では、渡邊による映像作品《棕櫚の散歩》も展示されている。この作品では、その土壌からは動けないはずの大きな樹木を、荷車によって展示会場まで人力で「散歩」するプロセスを見せている。そのプロセスを通常のドキュメンテーションと、棕櫚の各部分に取り付けられたカメラによる映像の双方を2つのモニターで提示している。
このように展示構成を描写するだけでも骨が折れる本展では、人工物、植物、動物といった非人間たちによって構成される生態系のなかに、美術家としての2人のワタナベの作家性が入れ子構造的に組み込まれている。展覧会タイトルが「ふたつでひとつの幹」を意味していることからも、作品の自律性や作家の個別性を前提として本展を鑑賞することへの違和感が生じる。また、そもそも美術館のようなインスティテューションでは、植物・動物の生体や土壌を運び込み展示することに大変な困難が伴う。そのような観点において、本展はオルタナティブ・スペースの持つ特徴や可能性を積極的に活かした展示となっている。つまり美術の伝統的制度論を脱構築しつつ、近年の新しいエコロジー観を、脱中心的なひとつの生態系を通して提示する実験的な例であると言えるだろう(*3)。
いっぽうで、いくつかの違和感も残る。第一に、本展がそれでも(人間による)美術/アートの文脈に依存することに対する評価の難しさがある。人間とそれを取り巻く環境の関係性を再考する芸術実践においては、サステナビリティに関わる科学技術のイノベーションが重要な要素になっていることがしばしばある。エコロジーの感覚を示すため、非人間たちと折り重なるように2人の作家の区別が曖昧になるほど、バイオ・デザインの実践がしばしばそうであるように、鑑賞者の関心は有機的なシステムやデザインを生み出す(SDGs的な)技術的可能性へと集約してはいかないだろうか。あえて極端なことを言えば、本展が美術の伝統から離れれば離れるほど、本展と優れたサステイナブル・テクノロジーのプロトタイプの展示会では、どちらがより良い「アート」の鑑賞体験であるかということの判断もまた難しくなるだろう(*4)。
第二に、これはより根源的かつ自明な問いであるが、非人間のまなざし(あるいはたびたび持ち出されるユクスキュル的「環世界」)は、果たして人間の表象システムを通して提示しうるものなのか。非人間の諸世界を考えるならば、そこで生じる意味は、もちろん人間だけのものではない。理解能力の雲は私たちの周囲を漂い、絡み合い、広がったり縮んだりする。どの動物も自らの「環世界」の広がりのなかで、風景の描写を行い、それを読解、踏破、横断、想起するのである(*5)。植物であれば、その風景はさらに違ったものになるだろう。植物の哲学を説くエマヌエーレ・コッチャは、ユクスキュルのモデルが、「器官的」なかたちを通じて世界へとアクセスすることを前提とするのに対し、植物は「器官」によらずその身体と存在の全体でもって世界に接しているという(*6)。例えば《棕櫚の散歩》において、棕櫚にいくつも取り付けられたカメラによる映像を、(強制的に)散歩させられる植物側の目線というストーリーとして解釈できる反面、そもそも植物から見た世界のあり方は、それとはまったく異なるものであるはずである。無論、自分の身体を通して延々と人力で棕櫚を散歩する作家の姿が、その暴力性にパフォーマティブに言及しており、そのことに自覚的であることには疑いがない。
こうした疑問は、「生態系(エコシステム)」という用語の問題と関連している。生態系とは、もともと物理学的モデルに基づき、人間の理性と論理によって説明可能な「システム」を前提としている。藤原辰史によれば、システムという言葉による全能感と違和感を批判しない限り、「生態系」はわたしたちの人間世界をも同時にとらえる概念にはならない。だからこそ逆に、エコロジー(生態学)の問題を人文学全般に侵入させるために、この「生態系」という概念は有効になる(*7)。本展は、あえてそのシステマチックな構成を美的に強調することで、生態系というシステムへの気付きと違和感を与えている。これは今日のエコロジー下にて生じている、様々な諸存在同士が織りなす世界を通過しようとする作家の挑戦である。コッチャは言う。
世界とは開かれること、絶対的な循環の自由のことなのであり、物体は他の物体と並存するのではなく、相互に「通過していく」のである。生きること、経験すること、世界に在ることとは、あらゆる事物によって自分が貫かれることでもある。自己の外に出るとは、常に他のなんらかの事物に入り込むこと、その事物のかたちやアウラの中に入ることなのだ(*8)。
「生態系(エコシステム)」としてのアートは、人間による表象システムのなかにありながら、システムへの信頼やトポロジカルな関係を覆し、「すべてがすべてのなかにあるという『浸り』の状態としての世界」(*9)を模索しなくてはならない。展示スペースの区別や個々の作家性を曖昧にし、生み出したシステムに自ら開口部を設け、人工物、植物、動物、人間が入れ子構造のように絡み合う本展が、この世界に対して、ひとつの先陣を切ろうとしたことは間違いない。
*1──実際には、人間がいる限りほとんどそこに鳥はやってこないのだが、センサー付きカメラによって鳩がやってきた場合には記録されるようになっている。
*2──作家との会話から。
*3──本インスタレーションの系譜には、ハンス・ハーケの《ライン川の水浄化装置(Rhine-Water Purification Plant)》(1972)などが挙げられるだろう。ドイツ・クレーフェルトのハウスランゲ美術館で展示されたこのインスタレーションは、汚染されたライン川の水を濾過し、浄化した水を金魚の入った水槽に流し、さらに水槽から溢れた水をホースで美術館の庭に流すものである。これはライン川の水質汚染という環境問題により直接的に言及しており、本展とは質が異なるものの、こうしたエコ・アート的実践は過去にも多くなされていることは忘れてはならない。
*4──クリシェではあるが、これはアートの語源であるars (ギリシャ語のテクネー/技術)の問題へと回帰していると考えることもできる。
*5──ジャン=クリストフ・バイイ『思考する動物たち ─ 人間と動物の共生をもとめて』石田和男・山口俊洋訳、出版館ブッククラブ、2013年、pp.114-115
*6── エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学 混合の形而上学』嶋崎正樹訳、勁草書房、2019年、p.59
*7──藤原辰史『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』、青土社、2019年、pp.233-234
*8──コッチャ、前掲註(6)、pp.96-97
*9── 同前、p.94