2020年の春、不確かな風向きのなかで
カディスト・アート・ファウンデーション(KADIST)は、パリとサンフランシスコに拠点を構え、トランスナショナルな視点でコレクションを中心とする活動を展開してきた、現代美術の非営利団体である。「もつれるものたち(Things Entangled)」展は、2016年頃からはじまった、東京都現代美術館とカディスト・アート・ファウンデーションとの協業の成果となる、共同企画展である。
当初、3月14日から開幕する予定だったが、政府の緊急事態宣言に伴う臨時休館は、その後も数回にわたって延長された。約2ヶ月の間、インストールが終わった状態で眠っていた作品たちの時間を、5月22日に公開された藤井光の映像《COVID-19 May 2020》(*1)は見事に描写している。筆者は臨時休館中の4月17日に、韓国の美術雑誌『月刊美術』のため、本展を取材した。その後、本展の正式オープンの翌日の6月10日に再度訪れ、普段以上の熱意をもって真剣に作品を鑑賞する観客たちを目にした。贅沢ともいえる無観客状態の鑑賞とは対照的な、ひとりでありながら、ひとりではない距離で、他人と一緒に展覧会を見る体験の意味について考えさせられる時間だった。
今回の展覧会は、12組のアーティストの半数以上──トム・ニコルソン、ピオ・アバド、ジュマナ・マナ、リウ・チュアン、カプワニ・キワンガ、デイル・ハーディング、アレクサンドラ・ピリチ──を国内で初めて紹介する。参加作家の出身背景の多様性はさることながら、作品の内容から浮かび上がる、オーストラリアとパレスチナ、フィリピンとルーマニア、ドイツとタンザニア、日本とフランス、ギリシャとイギリスなど、複雑に絡み合う世界諸国の歴史・文化・地政学的文脈と、それを人間社会と人間以外の存在の関係性を軸に編み直したキュレーションが印象的だ。
時期が時期だったからか、本展のポスターにも使われた、磯辺行久の《不確かな風向》(1998)という、示唆的なタイトルの作品の前にしばらく釘づけになった。地図や図面の形で環境と人間文化の長期的な相互協力関係を探求してきた磯辺の思考と実践は、ミックスライスの《(どんな方法であれ)進化する植物》(2013)、岩間朝子の新作《ピノッキオ》(2020)、リウ・チュアンの《ビットコイン採掘と少数民族のフィールド・レコーディング》(2018)ら、同展の作品群のみならず、同館で同時開催中の「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展のエコロジーの思想とも共鳴している。
リウの作品が描いた、情報産業の背後にある 「野生の水を飼いならす」(*2)技術である水力発電が、中華同化を拒み山奥に居住してきた少数民族の伝統と記憶に与える影響は、ミックスライスの描いた、都市開発とダム建設によって水没したり、伐採されたり、移植された樹木の置かれた状況と類似している。リウの可視化した「見えないインフラ」は、ミックスライスの告発する「廃墟のない世界・現在しかない世界」を構築するための必須要素にほかならないだろう。また、あえて少数民族側の立場から距離を置いたリウの作品に対して、キワンガの作品は、ドイツの植民地政策に対するタンザニア人の反乱と、そこで呪術的な水を用いて銃弾に対抗した霊媒師が象徴する超自然的な伝統文化に軸足を置いている。この無謀さがゆえに詩的な取り組みから、ニコルソンの《相対的なモニュメント(シェラル)》(2014〜17)が見せる、後戻りできない歴史に対する個人の想像力を連想したとすれば、やや飛躍に聞こえるだろうか。
本展覧会の構想に至るひとつの出発点であり、観客の動線の終着点に置かれた、藤井の新作インスタレーション《解剖学教室》(2020)は、福島県双葉町歴史民俗資料館の所蔵品と映像で構成されている。所蔵品には、資料館から運び出される際の放射線量の測定値と日時、そして2016年以降に再測定した際の日時と測定値が記録された札が付いている。 藤井の作品 は、消えたり、忘れられたりしたかもしれない文化財の運命とともに、過去、現在、未来が重ね合わされた時間のなか、再現の不可能性と、不可能性の再現という問題が、個別の国家の特定の災害に限られたことではないと証言している。
「今日、誰もが、純粋に
*1──https://www.youtube.com/watch?v=y13g7ozaLVs&t=3s
*2──作中に引用された、マクシム・ゴーリキーの言葉
*3──E.W. サイード著、大橋洋一訳『文化と帝国主義2』みすず書房、2001、245~246頁。強調点は本文のママ。