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REVIEW - 2020.4.7

熱が媒介するエコロジカルな気づき。黒沢聖覇評 上村洋一「Hyperthermia──温熱療法」展

自然環境のフィールドレコーディングを中心とする作品制作を行う上村洋一。NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]で開催された個展では、北海道オホーツク海の流氷から着想を得たインスタレーションを発表した。身体や環境に対する新たな感覚の目覚めへと鑑賞者を誘う本展について、キュレーター・アーティストの黒沢聖覇が論じる。

文=黒沢聖覇

展示風景 Photo by Ryohei Tomita Courtesy of the artist 
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「人新世におけるアート」への問い

 上村洋一の個展「Hyperthermia──温熱療法」では、北海道オホーツク海の流氷で得たフィールドレコーディングによるサウンドスケープ を軸にインスタレーションが展開されている。サウンドスケープには、北海道オホーツク流氷について多くの書籍を執筆した作家・菊地慶一が描写する「流氷鳴り」から着想を得た音が混合している。流氷鳴りは、流氷の隙間から空気が押し出され、人間の口笛のような音を奏でる自然現象であるが、現在は流氷の減少によって聞こえなくなったという。上村は、知床の人々にこの流氷鳴りを想像してもらい、それぞれに再現してもらった。サウンドスケープは、流氷同士が擦れ、崩壊する音、潮の流れによる轟音、そしてこのイマジナリーな流氷鳴りによって構成され、展示室を満たしている。また、展示室中央では、石油由来の物質であるパラフィンワックスを用いた氷山のような造形が、大きな水槽の中に象徴的に沈んでいる。

 この疑似氷山は、クジラの心拍のリズムで変化するという集魚灯を模した青色のLEDで照らされている。展示室の入り口は、赤い半透明のプラスチックカーテンで仕切られており、背後で青色に光る水槽との視覚的なコントラストを生み出している。この赤と青の対比は言うまでもなく、「冷たさ」と「熱さ」という「熱」の位相の記号化である。

展示風景 Photo by Ryohei Tomita Courtesy of the artist

 本展タイトルの「Hyperthermia」は、「熱中症」と「温熱療法」という双方の意味を指している。流氷と免疫を「熱」という観点から同時にアプローチするという発想は、上村が過去にがんを患い、東洋医学的な温熱療法によって病状が回復したことに起因している。発熱は、免疫を高めるいっぽうで、過度に高まれば人体を危険に晒す。地球もまた、人間による産業活動によって発熱し、温暖化により流氷が減少する。からだという内的な環境と、流氷という外的な自然環境を一つのエコロジーとしてとらえ、熱が環境を守るものでも破壊するものでもあり得るアンビバレントな存在として展示空間に表出する。これが上村のストーリーである。

Photo by Takehito Koganezawa Courtesy of the artist
Photo by the artist Courtesy of the artist

 しかしこのストーリーにおける、氷山(自然)/パラフィン(人工)、赤/青、発熱/免疫といった多くの二項対立が、記号的・概念的に整理されすぎているがために、 おそらく作家自身がもっとも重視している流氷や温熱療法にからだを預けているときの身体性、「熱」に対する主体的感覚のパラメータ(*1)は、本展ではとらえづらい。そこには、おそらく「人新世におけるアート」が急速に概念化され、制度化されていくことへの作家の葛藤がある。

 「人新世 (Anthropocene)」という用語が、今日のアートワールドにおける重要なキーワードであることはもはや指摘するまでもない(*2)。近年、環境危機をテーマにする作品や、国内外の展覧会やビエンナーレでは、この用語がトレンドのように散見される。マクロスケールの環境変化への危機感がこの動向を後押ししているが、いっぽうでこのあまりにも巨視的な概念は多くのミクロな差異を隠蔽することにもつながっている。人新世という用語は具体性を持たずに乱用された結果、グローバルなアートシーンにおいてはすでに陳腐化してきているという印象も拭えない。上村自身も、人新世という用語への警戒感を述べている(*3)が、それでも本展のようなアプローチが人新世の言説のなかで文脈化されることはほとんど不可避である。その過程では例えば、パラフィンという石油由来の素材を使用することで、視覚芸術として作品の文脈に強度をもたせるという、環境倫理とアートの審美化の対立における矛盾が指摘されるだろう。そこで、環境問題の端的な美化を避けるため、ある程度の記号的体系を構築することによって、作品を概念化していく必要がある。しかし、このような(ファインアート的な)方法論だけでは、自然/人間(人工物)の大分割という、私たちにとっていまだ強固な思考の地盤を打ち崩すまでには至らない。「人新世におけるアート」の実践者たちは、つねにこうした葛藤を抱えることになる。

 現代のエコロジーの危機を1980年代末から予見していたフェリックス・ガタリは、芸術的知覚を、「現実の断片を既成の文脈から引き剥がして脱領土化し、それに部分的言表行為を作り出す役割を演じさせる」(*4)ものとして重視した。アートとは日常生活を変容させる身振りであり、主体感(subjectivity)がつねに特異的でありつつ、集団的な仕組みのなかにおいても「そのもの」として生じるような瞬間を、「美的=感覚的なもの」(芸術的知覚)は招きよせると考え、エコロジーの危機においてはとりわけこの芸術の役割が重要であると彼は主張したのである(*5)。

 例えば、本展においてそれが感覚されるのは、青色LEDのぎこちない明滅である。このぎこちなさは、使用されているLED照明の特定の技術的制約(照度を段階毎にしか設定できない)から生まれている。作家はおそらくクジラの心拍にあわせてよりスムーズに演出したかったのであろうが、この不本意でぎこちない段階的な明滅は、パラフィンで出来た氷山の「ざらついた表面」を異質な形で際立たせることで、パラフィン=人工物という直接的な結びつき(文脈)からこの造形を引き剥がしつつ、自然/人工の分割におさまりきらないマテリアリティの知覚へと鑑賞者をいざなう。

展示風景 Photo by Ryohei Tomita Courtesy of the artist

 この違和感と、眼前の発熱しないLED照明、水中で溶けないパラフィンの氷山という、ある種の「熱感覚の否定形」という記号とが組合わさることで、背後から聞こえてくる流氷のサウンドスケープとの感覚的なずれはより大きくなる。このとき初めて、記号的配列とは別の位相にある風景、自然と人工の衝突によって漏れ出す複雑な知覚(「熱」に対する主体感の特異性)へと導かれるのである。作家にとっては不本意なこのLEDのように、自然/人工という概念的な対比をふとした瞬間に無効化させ、主体と客体における環境を相互浸透させる「美的=感覚的なもの」が、気配としてさらに充満することが可能になったとき、上村のインスタレーションは、作家自身のストーリーや「人新世におけるアート」という文脈から離れ、より強力な「エコロジカルな気づき(意識)= ecological awareness」を鑑賞者にもたらすことになるだろう。

展示風景 Photo by Ryohei Tomita Courtesy of the artist

*1──例えば、上村はフィールドレコーディングを静的な瞑想と動的な狩猟が組み合わさる行為として「瞑想的な狩猟」と表現しており、おそらくここには作家にとって重要な身体性が含まれている(『人間と非人間が織り成す世界像を、知床のサウンドスケープで描く──アーティスト・上村洋一』WIRED作家インタビューより。https://wired.jp/2020/03/13/yoichi-kamimura)
*2──「人新世」は2000年に、大気学者のパウル・クルッツェンらによって提唱され、最終氷河期以降を指す「完新世」に変わって、人類の活動が地球史的なスパンで地層に痕跡を残す新しい地質時代を指している。いまだ専門機関から正式な呼称として認められているわけではないが、人文科学・アートに大きな影響を与えている。
*3──同前、作家インタビューより。
*4──フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』、杉村昌昭訳、平凡社、2008、p.128。
*5──上野俊哉『四つのエコロジー フェリックス・ガタリの思考』、河出書房新社、2016、pp.235-236。