解釈の「恥ずかしさ」について
称号は自分では名乗れないものだ。自分以外の他者から与えられ、それとして広く認識されることで、称号は称号としての社会的機能を果たす。そして、それは一種の政治力学とも不可分である。
それでは、花は、絵画はどのように他者から認識されうるのだろうか。それを極めて慎重に考察した成果が、本展「称号のはなし」である。
結論を急ぐ前に、本山ゆかりの個展「称号のはなし」の内容について確認したい。本展で本山は、2枚の布を縫い合わせ、その両方にまたがるように花を刺繍した新たなシリーズを発表している。布はほぼ同じ大きさで、補色関係を成す2枚もあれば、同系色のグラデーションの組み合わせもある。また、布は壁に固定された端から中央にかけて皺がよっている。さらに、花の刺繍自体が布の表面にわずかな隆起を生み出している。
これら本展の展示作品は、近年の作品からの大きな転回を示している。
そもそも本山ゆかりは近年、透明アクリル板を支持体にし、白地に簡略化された黒い線のみで事物を描いた絵画に取り組んできた。それらと、本シリーズを見比べると、透明で平滑、硬質なアクリル板から柔らかく凸凹した布へといった質感の違い、そして、白黒からややくすんだツートーンカラーへといった色味の変化にすぐ気づく。また、絵具が乗ったアクリル板の前後をひっくり返して提示する大胆な身振りは、1針ずつ縫い上げる手作業へと移り変わっている。
さらに大きく異なっているのは、描画対象との接し方である。これまで本山は、あえてモチーフの意味解釈を拒むかのように事物を描いてきた。例えば、「画用紙シリーズ」や彼女の作品で多用される「棒人間」は、数本の黒い線へと解体される寸前で成立している。そのどこか危ういバランスは、普遍的、抽象的な意味を過度に読み取られることを、やんわりと妨げているように感じられた。
しかし、今回は百合やチューリップ等の切り花の輪郭を生真面目とも言える態度で描き出している。花は絵画のみならず、古今東西の視覚文化全般のなかで極めて多くの意味──純粋、愛、女性美、ヴァニタスなど──を付与されてきた。それゆえ、これら花を淡々と表現する本作は、本山が、特定の意味をあえて深く追求させない次元から、意味の充溢を引き受ける次元に移行した結果とも見える。
そして実際、今回の新作は様々な意味解釈を見る者に強く促すのだ。たびたび指摘されているように、縫うという技術自体、家庭や女性性と結びつけられファイン・アートの外側に長らく置かれてきた。その技術によって、2つの物質が接合させられ、さらに両者の境をまたぐ格好で、女性性の比喩とされてきた花が掲げられている。つまり、女性性を強く喚起させる技術とモチーフによって、相異なる二者が統合され、その境目も美しく彩られているのだ。
ただいっぽうで、布は縫われるたびに少しずつ穴が開き、しわや引きつれも生じている。異なる二者を結びつける行為に必然的に伴う傷や痛み、不和の兆しともとらえられよう。相異なるものの協調のなかには、一種の可傷性が潜んでいるのだ。であれば、作品中央の花は、それら微細な、しかし避けがたい犠牲に対する供花なのだろうか。
こうした解釈を進めるうちに、本作品は現在の社会状況の反映であるかのように見えてくる。相異なるものの対立と協調、協調の必然としての痛みや傷。その過程に織り込まれている女性性について。
しかしながら、こうした解釈をした次の瞬間、非常に恥ずかしい気持ちになるのは何故だろう。本山の作品に安易に時世の反映を読み込んでしまう、その発想の素朴さに後ろめたさすら覚える。
それはおそらく、表現になんらかの意味を仮託する行為と、花になんらかの意味を託す行為は、パラレルだからだ。本山は、花が様々な意味を人によって付与されつつ愛でられてきた事実に対し批判的な姿勢を示す。この本山の批評的な眼差しは、「称号」という仰々しい言葉の選択や、花の切り口を隠そうとしない描画から明らかだ。だからこそ鑑賞者である私は、花に対して無自覚に向けられてきたのと同じような眼差しを、彼女の作品にも向けてしまった自分自身に、一種のおこがましさを感じたのだ。私は、望まれぬ称号を一方的に授けるような行為をしているのではないか、と。
本山は簡略化された記号的表現からより写実的な表現へと舵を切った。そして、イメージの解体と再構成のゲームだけに閉じることなく、かといって、社会反映的な見方へと無頓着に落とし込まれない表現を目指した。それはつまり、意味を充溢させ、政治的文脈への接続可能性を担保しつつ、それを結論としない表現だ。それが達成されるとき、表現に対する私たちの認識も更新されることだろう。