The Song is ended. But The Melody Lingers on.
2003年に同館で開催された「ダンス!20世紀初頭の美術と舞踊」展(以下、「ダンス!」展)のカタログは、展示企画者の木村理恵子による次のような文章で始まっている(*1)。
1996(平成8)年にドイツで『近代における舞踊』という展覧会が開催された。残念ながら展覧会を見ることはできなかったが、〔…〕カタログをめくって見るだけでも、大変に魅力的なものであったことが分かる。
この文章はそのまま、「ダンス!」展カタログを読んで筆者が受けた印象に重ね合わせることができる。ページをめくるたびに現れる生き生きとしたイメージたち──小川千甕の絵葉書が、中山岩太の撮る跳躍するダンサーたちが、久米民十郎と伊藤道郎の『鷹の井戸』が、未見の展覧会の横溢する魅力を伝えてくれる。
企画者の熱量も凄まじい。「美術家たちのさまざまな舞踊との関わりを扱っている」その展覧会において、木村は「舞踊詩と呼ばれる新しい舞踊」について、また「この新しい舞踊に興味を抱いた美術家たちが少なくなかった事実」を指摘し、中心人物である石井漠と山田耕筰を日本近現代美術史のなかに位置づけ直そうとする。やるべきことはあまりに多い。木村は前のめりになりながらこう文章を結ぶ。
この展覧会では、美術と舞踊のさまざまな交錯を断片的に紹介している。今後の研究で、この諸断片が、いずれ線となり面となっていくことと思う。舞踊と美術との関係を考える研究は、まだ始まったばかりなのである。
「ダンス!」展から17年。「山田耕筰と美術」展はまさに、「諸断片」が線となり面となったひとつの達成であった(*2)。本展は、「明治時代に始まる日本近代音楽史に初めて登場する、専門的に作曲を学んだ音楽家」(*3)である山田耕筰(1886-1965)の仕事を辿りながら、彼と同時代の「美術」との関係性を概観するものであった。ひと続きの楽譜のようにも思える美しい配置は、300点におよぶ絵画、版画、資料群を抱え込む本展の鑑賞ストレスを軽減することに一役買っており、映像資料がないことも(様々な制約によるものかもしれないが)結果的に奏功していた。受付で希望者に配られる「音声ガイド」からは、解説ではなく山田が作曲した音楽が流れ、聴くこと、読むこと、歩くことが一体となった鑑賞体験を生んでいる。近年の研究を反映してか(*4)、後藤暢子の評伝にも登場しない版画家・恩地孝四郎との影響関係についても十分なスペースが割かれ、鑑賞者は恩地の版画と山田のクラシックを同時に受けとめることができた。
これだけ統一感のある展覧会であるがゆえに、ノイズや休符、「外れた音」はかえって聴取され記憶に残る。例えば1916年にカンディンスキーらの作品をいち早く日本で紹介した「Der Sturm 木版画展覧会」については、その日本近現代美術史上の重要性を再確認できるいっぽうで、シュトゥルム画廊オーナーからの作品返却を訴える督促状の文章があまりにも目を引く。川喜田煉七郎による「霊楽堂」のドローイングも、「インポッシブル・アーキテクチャー」として存在感を放っていたが、本展における最大の空白は戦時における山田の戦争協力である。紀元二六百年行事で発表された歌劇『夜明け』(1940)や、曲を提供した日独映画『新しき土』(1937)(*5)の紹介はあるものの、前者は1929年に執筆したオペラ『黒船』の延長にあることが、後者は山田が出来栄えに不満であったことがそれぞれ語られる。「この映画の頂点ともいふべき山の場面の音楽は間断なく鳴りとどろく火山の効果に打ち消されて、せっかくの美しい録音も混濁しきつたものになりきつてゐた」(*6)と嘆く山田の言葉を並置することは、あくまで彼が「融合芸術」を志向しており、プロパガンダ自体を目的としていなかったことを強調する(*7)。
無論、企画者に山田の戦争責任を免責する意図はないであろうし(*8)、実際、カタログの年表にはしっかりと戦時期の山田の動向が記されているのだが(*9)、展示空間内での戦時期への言及の薄さが結果的に際立ってしまう。本展があくまで「山田耕筰と美術」と名づけられており、扱う範囲を舞踏や美術との影響関係に絞っていることも十分理解している。その上で書くならば、本展は、音楽が人間に与える力を、山田が人々を巻き込みながら活動的に挑戦していく姿勢を、あるいは「融合芸術」の魅力を存分に伝えようとするものであり、そしてそれに成功している。いわゆる「戦犯論争」において「私は単なる置き物でしかなかった」(*10)と言い切る山田の言葉は、本展と真っ向から対立するはずなのである。
*1──木村理恵子「20世紀初頭の舞踏と美術――石井漠を中心に」『ダンス!20世紀初頭の美術と舞踊』(栃木県立美術館、2003)
*2──2009年には森仁史らによる「表現主義研究会」が中心となり、「表現主義」あるいは「生命主義」というより広範な射程から「躍動する魂のきらめき 日本の表現主義」展が開催されている。
*3──後藤暢子『ミネルヴァ日本評伝選 山田耕筰 ―作るのではなく生む―』(ミネルヴァ書房、2014)p.ii
*4──本展カタログにも、桑原規子による「山田耕筰と恩地孝四郎の周辺-「交流芸術」の夢」という論考が寄稿されている。
*5──『新しき土』終盤の火山の噴火のシーンでは特撮において円谷英二や彫刻家・浅野孟府らが参加している。
*6──「『新しき土』の作曲記録」(1937)後藤暢子、團伊玖磨、遠山一行編『山田耕筰著作全集〈2〉』(岩波書店、2001)
*7──突飛な例となってしまうが、「火山の音」の積極的な採用については、シュルレアリストたちによって行われた「サド公爵の遺言執行式」(1959)を挙げることができる。「さらに私はまた、この音響効果を他の会場でも実現させるため、まず何よりも、どのようにして噴火する火山の音に似せようかと話し合っていたのだが、そうしていると、ブルトンが来たる国際展では会場全体に音響効果をもたらすように私に頼んだ。」(ラドヴァン・イヴシック著、松本完治訳『あの日々のすべてを想い起こせ アンドレ・ブルトン最後の夏』エディション・イレーヌ、2016、p.52)
*8──長木誠司『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』(作品社、2010)には山田の戦争責任をめぐる論争の一端を見ることができる。戦時の協力体制下では山田ひとりに戦争責任があるのではないし、問うべきはむしろなぜ戦争責任がうやむやになってしまったのかではないかという議論は、首肯できる部分もありつつもやはり山田自身の実践に対しての批判的検討が欠けているように思われる。
*9──森脇佐喜子『教科書に書かれなかった戦争Part16大学生が戦争を追った 山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか』(梨の木舎、1994)には「山田耕筰 戦争協力曲作品名リスト〔声楽曲〕」が掲載されている(pp.24-26)。
*10──「果たして誰が戦争犯罪人か」『東京新聞』1945年12月23日