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2019.12.3

人と牛の半獣が、男性/人間中心的な規範を暴く音楽劇。田中綾乃評 市原佐都子(Q)『バッコスの信女ーホルスタインの雌』

エウリピデス作のギリシャ悲劇『バッコスの信女』を、劇団Qの市原佐都子が大胆に解釈、再構築した『バッコスの信女ーホルスタインの雌』。「あいちトリンナーレ2019」のパフォーミングアーツ部門で発表された本作は、主婦、ペットのイヌ、ウシと人間のハーフである半獣、合唱隊(コロス)が登場し、性と生殖にまつわる問題を鋭くポップに浮かび上がらせた。この現代の音楽劇を、哲学研究・演劇批評を横断しながら執筆活動を行う田中綾乃が論じる。

田中綾乃=文

上演風景。人間と牛のハーフである半獣(川村美紀子)をコロスが囲む Photo by Shun Sato
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全員女性の出演者たちが ギリシャ悲劇を現代に刷新する

 「あいちトリエンナーレ2019」のパフォーミングアーツ部門で初演された市原佐都子の『バッコスの信女―ホルスタインの雌』。エウリピデスの『バッコスの信女』を市原独自の〈生/性〉という視点で現代化したこの作品は、強烈なエネルギーに満ち溢れていた。もっとも今作には、アリストテレスが「悲劇」の定義で示すような偉大な英雄やギリシャの神々は登場しない。市原は、原作『バッコスの信女』のディオニュソス神とペンテウス王という〈神vs人間〉の対立図式を、現代社会における〈人間と動物〉〈男と女〉〈親と子〉など相容れない両者の関係性として抉り出す。これらはニーチェが『悲劇の誕生』で述べた〈アポロ的なるものとディオニュソス的なるもの〉あるいは〈理性的なものと欲望(衝動)的なもの〉と言い換えることもできる。ニーチェによれば「悲劇」とは、この〈アポロ的なるもの〉と〈ディオニュソス的なるもの〉との矛盾的統一によって成り立つものであり、その意味で今作は紛れもなく現代のギリシャ悲劇である。

上演風景より、主婦(兵藤公美) Photo by Shun Sato

 今作の主な登場人物は、主婦(兵藤公美)とペットの犬パピヨン(永山由里恵)、人間と牛の“ハーフ”である半獣(川村美紀子)である。物語は、主婦が住むリビングルームを舞台にして、主婦の長いモノローグから始まる。主婦は昔、酪農農家で働いていて、その仕事は雌のホルスタインに液体窒素で凍らせた雄の精液を注入して人工授精させる家畜人工授精師だったこと。主婦がハプニングバーで経験した女性同士の柔らかなセックスに感激したこと。自分の子供をつくろうと思い、精子バンクの海外通販で日本人男子の精子を、ペットのパピヨンと同じ10万の値段で買ったことなど、主婦の過去が語られる。内容は際どいが、主婦役の兵藤の飄々とした語り方が実にユーモラスで、その魅力に惹きつけられる。

 主婦は、つねにスマホから情報や知識を得て、欲望と抑圧のバランスをとりながら、一見、賢く暮らしているように見える。しかし、その主婦の日常を脅かす半獣が現れる。山奥の牧場で女たちだけでバターマッサージをして暮らしているという半獣の正体は、主婦が購入した日本人精子を雌のホルスタインに注入して誕生した人間と牛のハーフであった。しかも、上半身は人間の女だが、下半身は牛でペニスをつけた両性具有である。

 主婦は半獣が3歳のとき、育児放棄をし、安住を求めて好きでもない男と結婚する。いっぽう、捨てられた半獣は自身の内なる獣性と闘いながらも、両性具有の肉体を売って必死に生き延びてきた。母を求める半獣は、主婦を究極の癒しだというバターマッサージに誘う。主婦は欲望から出かけていくのだが……。

上演風景より、コロス Photo by Shun Sato

 市原は、この物語を古典ギリシャ悲劇の形式に則って展開していく。それはモノローグ、対話劇、歌、ダンス等を組み合わせた構成であり、女性のコロスも登場する。殺された牛の魂だというコロスたちは、劇中、驚くほど美しい女声ハーモニーでキッチュな歌詞を響かせる。コロスの合唱は額田大志(東京塩麹/ヌトミック)の作曲によるものだが、これが劇的な効果を生んでいる。さらに市原は出演者を全員女性にすることで、男性中心主義のギリシャ悲劇の構造を女性の視点でクリティカルに刷新する。特に主婦が語る<性>についての描出は、男性では描けない内容で斬新だ。

 今作では、人間と牛のハーフである半獣が、神と人間のハーフであるディオニュソスになぞらえられている。半獣役の川村は、その特異な存在感と肉体に不気味な魅力があり、抑圧的なダンスと力強い歌が心身ともに満たされない半獣を表象しており、異化的だ。母の乳を吸えず、母に捨てられた半獣は、「私は私の精液を母の子宮に泳がせ、私は私の生まれ変わりを母に産ませて、私は私の母の乳首に吸いつき飲む」ことを欲望する。『オイディプス』のように、子でありながらも母と交わり、親となることを欲するのだ。ここから半獣は、〈人間と動物〉〈男と女〉〈親と子〉という二項対立を統一する根源的な存在であることがわかる。この根源性とは、生物のプリミティブなものへの希求であり、同時に恐れでもある。

 原作では、ディオニュソスの誘いでバッコスの信女たちの秘儀を覗き見たペンテウスは、信女たちの狂乱によって襲われ、最終的には母に首を討たれる。だが、今作ではバターマッサージを受けに行った主婦は殺されない。逆に自分の中に挿入しようとする半獣のペニスを引き抜き、それを手にして帰ってくる。半獣は「私はこれで救われたのでしょうか。教えてくださいお母様。これはお母様の愛ですか」と呼びかけるが、主婦は応えず、半獣は昇天する。その後、主婦はペニスを夕飯の焼肉にして、笑いながらその肉を食べる。

上演風景より、半獣(川村美紀子)とコロス Photo by Shun Sato

 このペニスを食べるという結末が衝撃的だ。もっとも、半獣は主婦を母だと思っているが、主婦にとって半獣は子供ではない。家畜の牛同様、人工授精によって生み出された命だ。それゆえ家畜と同じであるならば、それを食べることに躊躇はない。そもそも人工授精というテクノロジーは、家畜に適用される場合は人間が搾取するためであり、人間の場合は子供が欲しいという欲望が目的であり、その生殖に<愛>は必要ない。だからペニスを引きちぎられた半獣が「お母様の愛ですか」と尋ねても、主婦は応答しない。なぜなら、そこには最初から<愛>などなく、「人間と牛のハーフを見てみたい」という異種交配への衝動があるだけだからである。

 他方で、男性原理の記号であるペニスを食べることには、二重の意味があるように思われる。ひとつは、食べるという行為は、存在(あったもの)を不在(なきもの)にすることである。半獣という矛盾を抱えた根源的な存在をなきものにした主婦は、今度は男性をもなきものにしようとする。主婦は女性とセックスしたとき、「なんで男が好きだと思わされてきたのかわからない」という発見をする。これまで男性の欲望の対象として晒されてきた女性は、その欲望の記号をなくすことで自由を獲得しようとするのかのようだ。

 しかし、同時に食べるという行為は、自分とは異なるものを内部に取り込み、同化することでもある。主婦が半獣の下半身の教育を「エロ本を用いて」行い、若い女性とのセックスでは、自分が「AV男優のように」振舞ってしまったことは、女性のなかにすでに内面化された男性原理、規範の価値観があることの証明でもある。男性原理に対する拒否感と同化──この二重性が食べる行為に象徴されることで、主婦が孕む矛盾も露わになるのだ。

 ラストで主婦はペットの犬と仲良く食卓を囲む。ハワイと名づけられたパピヨンは、去勢されたオスであり、主婦の愛玩動物だ。家畜もペットも私たちの消費社会のなかに組み込まれた歪みであるが、同じように人間も資本主義社会の制度の外には出られず、日々、そのなかで飼いならされている存在でもある。人間とペットが同じテーブルで焼肉を食べるという景色は、私たち人間も家畜化されているという演出家のシニカルなまなざしでもあり、とびっきりな明るさのなかにどこか虚無感も感じた。

 女性たちによって奏でられた今作は、幾重ものポリフォニーを帯びながら、現代に生きる私たちの矛盾や暴力を浮かび上がらせる力があった。31歳の女性演出家の鋭い洞察と鮮やかな手法に感嘆しつつ、実りある舞台に遭遇したことの喜びを感じている。