田中功起《抽象・家族》と絵画と普遍性について
田中功起があいちトリエンナーレ2019にて発表した新作《抽象・家族》は、映像と大小のオブジェ、椅子、絵画、写真、テキスト等が同一空間内に見事に配置された極めて質の高い作品である。愛知県美術館の展示室5を余すことなく用いて自らの表現へと変容させており、ここに長らく勤めている私自身、非常に新鮮に感じた。
しかし、10月5日現在、一般の観客はこのインスタレーションを見ることができない。8月18日に田中功起は、あいちトリエンナーレの展示のひとつ「表現の不自由展・その後」の中止に対するアクションとして作品の「再設定」を要望する。その結果、9月3日より、通常の開館時間中は展示室の扉が半分閉じられ、観客は入場不可能となった(*1)。
展覧会レビューという枠で、通常、勤務館で開催中の展示について書くことは控えるべきである。しかしながら、今回は、この展示を会場で見られない人が少なくはない点を考慮し、《抽象・家族》について、とりわけ本会場以外では見ることができない、この場所でのインスタレーションについて執筆したい。
なお、本作はあいちトリエンナーレ2019においてヴィジュアル・アーツではなく、相馬千秋がキュレーターを務めるパフォーミング・アーツの部門に位置付けられ、私自身は作品の制作過程にはほとんど関わっていない。
また、このテキストは、展示改変に対する悲しみや憤りを呼び起こすことを目的としていない。それよりも、作品のそもそもの根底にあり、今回、図らずも顕在化された社会における差別にこそ意識を向けてほしい。後述するが、この差別こそもともと《抽象・家族》が取り組もうとしてきた主題のひとつであるのだ。
さて、最初に《抽象・家族》の構造をごく簡単に解説しよう。本作は、父母のいずれかが海外にルーツを持つ人々(日本国内で一般的に「ハーフ」と呼ばれている人々)が、疑似家族のように集い自らの経験や考えを語り合う映像、その映像を含む展示室全体を用いたインスタレーション、そして、観客同士が意見を述べあうアッセンブリー(集会)という3つの要素からなっている。映像内に登場するダイニングテーブル等が展示室にも設えられ、撮影現場が部分的に再現、拡張されたかのように見える。さらに観客は、アッセンブリーを通じ、映像に登場する人々同様、戸惑いつつも意見を述べ合う経験を自分のものとして体験することになる。
こうした重層的な構造を持つ本展示を、とりわけ特別なものとしているのは絵画の存在である。《抽象・家族》というタイトルは、年齢・性別が異なる出演者が集う様子を「抽象的な意味での家族」として括ると同時に、明らかに抽象表現主義の絵画を指し示している。実際、映像の出演者たちは抽象絵画の制作を行い、彼らが制作したと思われる抽象絵画が展示室内に吊るされている。田中はこれまでも、複数で作曲や陶芸など共同作業を行う映像作品を発表してきたが、今回はそれが抽象絵画の制作なのである。
映像内で、彼ら4名はめいめいに刷毛を持ち、キャンバス上に線を引いている。全員で描くことで、中心となる表現主体が生じないように設定されているのだろう。この絵画の制作過程は、「日本」という国民国家の周縁部に位置づけられてきた個人の声をばらばらのままに聞く本作の姿勢を行為に置き換えたものと言えよう。
また、本作中の擬似ラジオ番組で蔵屋美香が語るように、抽象表現主義の絵画もまた、国境を越える個々人の生と、国家の称揚という国民国家をめぐる相異なるファクターが絡みあうなかで展開してきた。大戦期にヨーロッパからアメリカに亡命したアーティストたちが抽象表現主義の土壌をつくり上げたいっぽう、抽象表現主義はアメリカが世界的なアートシーンの覇者となる契機を国家にもたらしたのである。こうした絵画の歴史と、日本国外にルーツを持つ親から生まれた彼ら4名が共同で抽象絵画を制作する行為が、本作では重なり合い、改めて個人と国家の関係を意識させるのである。
加えて、この展示空間自体を、可動壁と仮設壁、薄型モニター、プロジェクション投影面、写真など複数の矩形によるコンポジションと考えることもできる。この可変的なコンポジションのなかを、観客は行ったり戻ったり、ときに立ち止まったりするわけで、その経験自体が抽象絵画内の架空の空間を散策するように感じられる。さらに、観客が移動し目線を変えるごとに、その視線は断続的に壁などに妨げられる。あるいは、特定の映像やテキストに集中したくとも、他の観客や映像の音が否応なく目や耳に飛び込んでくる。一般的なホワイトキューブでは、そうした要素はノイズとして取り除かれるものだ。けれども、本展示室では、絵画、映像、写真など、異なる時間軸や語りを持ったものが同一空間に存在しており、それらが見る人それぞれと偶発的に関係を取り結ぶのである。
ところで、この展示室は通常、愛知県美術館のコレクション展に用いられており、とりわけキャンバスに絵具を流し込んだモーリス・ルイスの抽象絵画《デルタ・ミュー》(1960-61) は常設的に展示されてきた。ルイス自身もまたロシア移民を親に持ち、《デルタ・ミュー》はキャンバス中央を余白のまま保っている。そのルイスの絵画が飾られてきた同一空間に、アマチュアによる絵画作品があることで、改めて、美術制度のなかで評価されているものと、その制度内で承認されえないものの境界にも思いが至る。美術史に刻まれる芸術作品、アマチュアによるワークショップの成果物、あるいは部屋を彩る室内装飾。それらを区別するのはなんなのだろうか。壁側の展示ケースの中に1枚の“絵画”が入っている。それは権威づけられ大仰に保護されているようにも、隔離され排除されているようにも見える。
田中が展示室に貼ったテキストで「抽象絵画は、色と形を認識しうる視覚機能を備えた、ある意味では普遍的な人間像を観客として想定する」と書くように、あらゆる人間に対して抽象絵画は等しく作用するという設定のもと、従来、美術館に展示されてきた。しかし、ここで想定されてきた“普遍的な人間像=普遍的な観客”が、実際は様々な人々を切り捨てたうえで成り立つ架空の存在でしかないことは、いまさら、指摘するまでもないだろう。
「普遍」「普通」だと信じられているものが、実際は多くのものを蔑ろにすることで成立してきたという現実。そして、その現実をどのようにそれぞれが認識するのか。この問題は、本作品のテーマである「単一民族国家、日本に暮らす日本人」像への再考、そして、彼が「再設定」するに至った社会に蔓延する歴史修正主義や差別感情と直結する問題である。
ここで、田中が社会学者のハン・トンヒョンに語った言葉を引用したい。
ぼくは、ハンさんが書くように、具体的なものから普遍的なものが段階的に抽出されるとも思っていません(ここが社会学と芸術に対するぼくが考える違いでもあります)。具体的なものの積み重ねのなかに、その構築された論理のなかに、普遍が生じると思うからです。
「具体的なものの積み重ね」という言葉は私に、複数の時間や声が同時多発的に流れている展示室、そのなかでも壁に重ねて吊られたキャンバスを想起させる。ここに普遍が生じる契機を、田中は託しているのだろうか。そして、そこで望まれている普遍とは、「普遍的な観客」「普通の日本人」といった概念のそもそもの成り立ちを問い、「観客」そして「日本人」の輪郭を固定化させないような動きと変化をはらむものであるはずだ。
じつはこの文章を書き始めてから、原稿を提出するまでのあいだに、「表現の不自由展・その後」の再開方針ならびに、文化庁による補助金全額不交付が決定され、いまなお展示は流動的な様相を呈している。しかし、明らかなのは、10月14日であいちトリエンナーレは終了すること、そして、展示が終了した後も、ここで扱われてきた差別や歴史修正主義の問題は残り続けるだろうことだ。作品や表現というフレームを通してこれらの問題に向き合ってきた観客は、展示終了後はフレームなしに問題と対峙しなくてはならない。このことは、筆者を含む美術関係者にも課された重い課題である。そして再び、ルイスの、あるいは田中の「抽象絵画」を鑑賞するとき、それは以前と同じように見えるだろうか、あるいは異なって見えるのだろうか。
*1──この経緯については、次のサイトに詳しい。「『あいちトリエンナーレ』の現状に抗議。田中功起が展示のフレームを再設定へ」ウェブ版美術手帖(https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20408)最終アクセス:2019年10月1日
*2──「田中功起 質問する 16-5 :ハン・トンヒョンさんへ3」ART iT(https://www.art-it.asia/top/contributertop/198215)最終アクセス:2019年10月3日)
《抽象・家族》正式クレジット
プロジェクト・タイトル:抽象・家族
制作年:2019
形式:撮影する、演じる、絵を描く、感情を表す、手紙を書く、料理をする、会話をする、穴を掘る、食べるなど
要素:映像(3つのフィルムの合計:約102分)、絵画、写真、ラジオ、アーティスト・ノート、エンド・クレジット、テーブル、椅子、その他
The project is co-commissioned by Aichi Triennale 2019 and Singapore Art Museum for Singapore Biennale 2019, also supported by ASO GROUP.
Courtesy of the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou, Aoyama Meguro, Tokyo