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2019.8.21

第五福竜丸展示館における「展示」のあり方とは。長谷川新評 「なぜ?ベン・シャーンが見た福竜丸-13点のデッサンと漁師たち」展

遠洋マグロ漁船がアメリカ軍による水爆実験で被ばくした「第五福竜丸事件」の資料を保存する第五福竜丸展示館(東京)にて、事件に関するルポルタージュの挿絵などを手がけたアメリカの画家・ベン・シャーンの原画展が開催されている。展覧会を含む館での展示について、インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。

文=長谷川新

展示風景より 撮影=長谷川新
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心臓、マグロ、モニュメントの零度

 東京都立第五福竜丸展示館が改修工事を終え、リニューアルオープンした。ちょうど、広島平和記念資料館のそれと同じタイミングであった。そこで考えてみるのだが、広島平和記念資料館が爆心地そばに建てられているのとは異なり、東京都立第五福竜丸展示館が夢の島にある理由が腑に落ちない。なるほどモニュメントは陸に属する。海とはいくぶん相性が悪い。それでもなぜ夢の島なのだろうか。本来存在しなかったはずの人工的な陸地。元埋立処分場。展示館では、「なぜ?ベン・シャーンが見た福竜丸 —13点のデッサンと漁師たち」が開催中であった。

※素描作品は展示館の環境から原画の展示は7月13日〜21日、9月14日〜23日とし、通常は複製画の展示となります

 ホームページにあるこの注意書は、展示体制の不十分さの露呈であるよりもむしろ、そういった条件下でもなお展示したいという意思の表れだと受け取らねばならない。こうした展示方法を、原画と複製品の差異を低く見積もっていると即断することは留保されなければならない。美術館のルールはあくまで、ひとつの、局所的最適解に過ぎない。

展示風景より

 展示館には第五福竜丸がそのまま展示/設置されている。というよりも、この遠洋マグロ漁船を覆うように建物がつくられているとすら感じられる。船のサイズが、展示館のサイズを明確に規定している。入るやいなやほとんど視界いっぱいにそびえ立つ第五福竜丸の躯体。一にも二にも、展示館は第五福竜丸を展示している。もちろん、館内には様々な掲示物や映像資料に加え、「死の灰」が入った容器や船員たちの日誌や衣類、そしてベン・シャーンによるペン画が展示されていた。そうした諸事物(ここではベン・シャーンの作品だけを特権的に扱うことは難しい)は、中央の船体と、それを囲む外壁という両サイドの導線に沿って並べられている。福竜丸の存在感(思わず写真を撮りたくなる、と形容することも可能だろう)を、たんなる存在感以上のものにするために。その存在感が、別のかたちをとって持続するために。とはいえ、ベン・シャーン展のスケールに拍子抜けしたのも事実である。

第五福竜丸のエンジン。廃船後は貨物船「第三千代川丸」に乗せられたが、68年に三重県・熊野灘に沈没。96年に引き上げられ、2000年より現在のように展示されている

 照りつける日差しを覚悟しながら、先ほど入ったところとは別の出入り口から外に出ると、第五福竜丸のエンジンが置かれていた。突然現れたエンジン。思考が逆方向へと進み出す。つまり、ということは── 館内にある第五福竜丸の船体は心臓が抜き取られている ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。なぜ、エンジンは船体とは別に、そして展示館の外に展示されなければならなかったのだろうか。この(「第五福竜丸」に生を見出すのであれば残酷とも言える)奇妙な展示の在り方は、どのような変遷のもとに行われたのだろうか。

第五福竜丸乗組員が使用していた日用品や船内掲示物の展示風景

 ここでようやく冒頭の疑問に立ち返ることができる。これらの問いはつながっている。筆者はてっきり「第五福竜丸」が、1954年の「被曝」後すぐに保存されたと思い込んでいたが、実際の福竜丸は、はるかに異なる「生」をたどっていた。福竜丸は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」としてその後も10年以上運用され続けており、67年に廃船となるにあたり、今度こそ保存へ──とはならず、そのまま東京湾の埋立地へと捨てられている。そしてこの際、まだ使用可能であったエンジン部分は取り出され別の貨物船へと移植されたのであるが、この船は翌68年に沈没してしまう。人々の懸命な保存運動によって第五福竜丸展示館が誕生したのは1976年になってのことであり、以降、船体は夢の島という人工地に展示され、エンジンは深い海の底に眠る状態が続くこととなった。どちらも水面からは遠く隔たっている。エンジン部が救出され、展示館の脇に設置されるのは2000年に入ってのことだ。第五福竜丸展示館は「第五福竜丸」および「1954年」にその中心がありつつも、「1954年以降」によって成り立っている。

マグロ塚

 エンジンから少し先に、もうひとつ、それほど大きくはない石碑らしきものがある。石には「マグロ塚」と記されている(*)。そばのプレートを読むと、「東京都」の名で書かれた、次のような文が認められる。

本来であれば、この塚はマグロが埋められた築地市場におくことがふさわしいのですが、市場は整備中であるため、暫定的に第五福竜丸のそばに展示されることとなりました。

 この文だけでもいくつもの問いと矛盾が同時に投げかけられているが、ひとつだけふれる。この塚があるべきだとされる場所(築地市場)にないことを示すのに「展示」という語彙が使われている。マグロ塚が「展示中」であるということは、ある社会矛盾が持続しているということを示している。マグロ塚は「闘争中」である。ここに至って、船体と別に設置されたエンジンが、保存の観点から原画を限られた期間しか展示できない建築設計が、夢の島という住所が、そして「事件」と「展示館」までのタイムラグが、不安定な展示と、不徹底な展示のあいだに大きな隔たりがあることを示唆する。完全無欠な情報の伝達機関としてではない展示。人称をつなぎとめるのではない展示。互いに不安定な鑑賞者として、あるいは不安定な鑑賞こそが、不完全な現実をつなぎかえる、という徹底した信頼を基盤にすること。ベン・シャーンの展示に「拍子抜けした」自分が何を求めていたのかを、いまもう一度考えたいと思う。

*──マグロ塚に刻まれた「マグロ塚」という4文字は、元第五福竜丸乗組員の大石又七によって書かれたものである。彼はこの字を書くために、3年間通信教育で字を習っている。