手段の目的化と、目的の手段化
シュシ・スライマンが尾道を舞台に継続させてきたプロジェクト「ORGANIZING ABANDON」はアーティスト・イン・レジデンスや、それにともなう成果発表という形式をとりながらも、ややもするとその範疇を超えた創作活動たりえている。
「ORGANIZING ABANDON」は、尾道の旧市街斜面地にて取り壊されようとしていた元青果店に着目し、それらを転用・再生しようとするプロジェクトである。この試みの開始は2013年、いまから5年前にまで遡る。建物の解体から、骨組みの補強・矯正、部分的な再構成、そして今年秋に行われたバルコニーの設置といった、建物本体に加えられてきた段階的な改変と、いっぽうで建物に残されていた家財道具や建築部材などの取り出された品々に施された、整理、観察、加工といった働きかけの段階があり、その都度作家は幾度となく尾道を訪れ、活動を続けてきた。そして、その進行をアップデートするように、これまでにも展示(公開)、トークイベント、ワークショップ等が行われてきた。
なかでも今回のバルコニーの設置は、青果店の建物が、シドラハウス(Siddra House)と名付けられた新たな建物として生まれ変わる機会となり、本プロジェクトにおける、一区切りを告げる中間報告的な意味合いを帯びた。
光明寺會舘のギャラリースペースは、現場から取り出された品々が分類・整理され、アーカイヴが構成されるパートと、建築部材にスライマンが加工を施すことでつくられた平面作品を展示するパートからなる。ここでは、材木から取り出された釘の1本1本が、あるいは発見された小動物の骨の一つひとつまでもが、整然と配置されている。そして、一部の部材には手が加えられ、平面作品へと転換されている。ここでの彼女の造形的な関与は極めて控えめに、その風合いや造形に呼応して施されているように見える。本プロジェクトにおいては、何ひとつ廃棄しない、という基本ルールが掲げられており、展示には物に対する執拗で丁寧な扱いが随所に見られ、作家の徹底した姿勢をうかがうことができる。
また、それらに加えて、膨大な数におよぶ瓦一つひとつに対して作成されたコンディションレポートの冊子、部材の灰を再利用した煉瓦の試作といった、調査や実験に関する資料も紹介されている。とりわけ、屋根瓦のコンディションレポートに見られた、無目的にも思える情報の執拗な収集は、1920年代の東京を中心に今和次郎と吉田謙吉らが展開させた考現学を想起させる。たしかに、考現学の探索がどこか科学調査然とした雰囲気を帯びていたのに対し、「ORGANIZING ABANDON」に見られるそれは、ファウンド・フォトを用いたインスタレーション作品《Darkroom》(2007)などで、モノに宿された精神的な存在との対話を作品化してきた例と同様、ある種の呪物的な性格を帯びている点では趣が大きく異なっている。
とはいえ、 スライマンの制作にも、考現学においても、情報の採集行為そのものや、事物や状況との対峙そのものが自己目的化しているかのような、同種の過激さを感じずにはおれない。そして、考現学はついに学問体系の構築へとは向かわず、ひたすら都市空間や人々の暮らしに関するディテールとその採取方法の多様性を示し続けたのだった。本展においても、これらの展示を通して観客は、作家やプロジェクト協力者たちが品々と交わした対話を追体験し、なおかつ、品々に対して彼女が採用した働きかけの諸様態を並列的に理解することとなる。それを導くように、プロジェクトに関わる人々と建築の諸要素などの関係を図示するダイヤグラムが会場には掲げられている。
ギャラリースペースで分散的に示された多様なアプローチを、逆に集約させるようなものとして、プロジェクトサイトにはシドラハウスがある。それは、作家や職人やほかの協力者による多様な働きかけを受け止める、求心力を帯びた存在となっている。そのいっぽうで、それがなおも用途を有した建物を目指している点において、異なる目的へと差し向けられていることは示唆的といえるだろう。
「シドラ」とはアラビア語で「星のような」を意味し、このたびマレーシアの職人の手によってバルコニーが付け加えられたこの建物は、星を眺める「ための」場所となる。あるいは、将来的にはアーカイブルームとしての使用も検討されているという。このようにして、本プロジェクトのこれまでの過程で求心的な存在として機能してきたもの(廃屋)が、段階を経て異なる活動の前提や受け皿となるような存在(シドラハウス)へと移行していったものと見ることができる。つまり、活動の目的であったはずのものが、その手段であったはずの人々の協働関係を継続させる拠り所として、手段化された。
こうした顛末も含め、本プロジェクトには、物や状況に寄り添おうとする作家の過激なまでの姿勢を見て取ることができる。あらためて、タイトルにある「Abandon」の意味を辞書で引いてみると、廃屋の文脈で用いられる「遺棄する」や「放棄する」といった動詞とともに、名詞としては「放縦」「奔流」といった意味も示されている。もしかすると、そのタイトルには、計画や目論みとは関わりなく物事が進展していくさまも含意されているのかもしれない。このようにして、本プロジェクトは予定調和に陥らず、状況に応じながら方向付けられ展開してきた。その歩みは、短期的でわかりやすい成果が求められてしかるべきアーティスト・イン・レジデンスという枠組みにおいて、作家にとっても、プログラムの主催者にとっても、あまりに長く、あまりに緩やかであるに違いない。こうした非効率性を受け入れ、継続させてきた両者の粘り強さには驚かされるばかりである。