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2018.8.9

ひたすらに描き続けた「路傍の画家」の画業をたどる。佐藤直樹が見た、「江上茂雄:風景日記」展

武蔵野市立吉祥寺美術館による「記録と記憶のありか / ありかた」をテーマとした企画展のシリーズの第3弾「江上茂雄:風景日記 diary/dialogue with landscapes」。本展は専門教育を受けず、生まれ育った九州を出ずに毎日作品を制作した画家・江上茂雄の東京では初となる個展だ。本展と江上の画業に、ペインターでグラフィックデザイナーの佐藤直樹が迫る。

文=佐藤直樹

展示風景より。1979年から2009年までに描かれた水彩風景のうち、荒尾運動公園駐車場付近(推定)を描いたものの一部
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「江上茂雄:風景日記」 終わらない画業 佐藤直樹 評

 江上茂雄の絵は最後まで変わり続けていた。アマチュア画家として、2014年に101歳で没するまで。死によって中断されることがなければ、今もまだ描き続け、絵は変わり続けていたに違いない。美術館での鑑賞を終えても、絵を見終えた感じがない。その先を追おうとする感覚が続いている。

 氏は幼少より絵を描くことに親しみ、早くから「画家として生きる」と心に決めながらも、15歳で高等小学校を卒業した後は三井三池鉱業所建設課で働き始める。それ以来45年間、日曜画家として過ごし、最初の個展を開いたときには60歳になっていた。働き始めて数年後の水彩画が1点《風景習作》として展示されていたが、描かれた当時この絵を目にした人はいなかったのだろうか。どのように受け取られたのだろう。本人にとってはどうだったのか。雨の店先を描いたとても美しい絵。時空を超えて届いてくるものがある、もっと見たい、それ以上うまく言葉にはできないが、自分はまずもってこの絵に強く魅かれた。

江上茂雄 風景習作 1929前後 個人蔵

 29歳の頃からクレパスやクレヨンを使い始めたというが、置かれた境遇のなかでいかに精力的に油画的表現を持続するか、という問題意識から導かれたようだ。実際、定年退職までの時期の絵からは非常に強い力が感じられるし、そのことは本人によっても語られている。50歳頃に描かれた《夏陰の小道》という絵にも魅かれたが、たしかにガシガシとクレパスを力いっぱい擦りつけたような跡が残っている。

江上茂雄 夏陰の小道 1962-63頃 個人蔵

 退職後は日曜画家から毎日画家になるわけだが、動眼神経麻痺や脳血栓などの闘病を経て、変化が起こる。1979年、67歳のときに、戸外の水彩風景画の現地制作を開始し、力づくで制するというより、何かに委ねるような絵になっていく。

 驚くべきはここからの持続の力で、以後約30年間、リュックに道具を入れ、時には数時間もかけて目的の場所まで歩き、数時間で作品を仕上げて帰宅することを、ほぼ毎日続けたという。同じ場所が選ばれることも多かったようだが、言うまでもなく、同じ絵は1枚もない。同じ季節、同じ時間帯、同じ場所であっても、風景が同じになることはないし、もし仮に、ほとんど同じに見えるような風景であっても、描かれることによって炙り出されるものはその時々で異なる。

展示風景より1979年以降に描かれた水彩画

 ある意味で非常に素朴な、当たり前に過ぎるとも思える事柄。しかし、それをひとりの画業として見せられ、打ちのめされたような衝撃を受けた。少しばかりわかりかけている気がしていた「絵画」というものに対する理解が、また振り出しに戻され、まったくわからないものになってしまったような感覚に陥った。

 江上茂雄という人は、おそらく、なんら満足することなく、まだまだ描き続けたいと思っていたに違いない。とはいえ、人間は無限に生き続けられるわけではないし、ひとりの画業には必ず終わりがある。が、ここには確かに、引き継がれるべきものが埋め込まれている。

 言うまでもなく、1912年生まれの氏にとっての「絵画」と、現在のそれとの間には隔たりもあるだろう。例えば、2000年前後の生まれの誰かがいずれ氏の絵を見ることになったとして、何を思うかまではわからない。また、当の本人にしたところで、19世紀に活躍していた1800年前後の生まれの画家達に傾倒していたわけでもないはずだ。氏が憧れたのは、やはり同世代の画家であった。美術雑誌から最新情報を集めてもいたというから、アウトサイダー的に情報の隔絶された場所で活動していたわけでもない。

 しかし、これは結果論的な見解でしかないが、氏の画業はそういった時代的な、美術の進化論のようなものを、どこかで超えてしまっていると思う。それは、この展覧会で絵の前に釘付けになっている人々の表情を見て確信したことだ。美術業界といったものとはなんの関係もなく、また有名な画家だからということで集まる人々とも無縁なところで、見る人に届いているものがあるということ。つまり、いわゆる美術史的な整理の仕方からも、マーケット分析のようなものからも、絶対的に解けないものがあって、江上茂雄の絵はそのような存在なのだと思う。

 今回レビューを書く機会を与えられ、思いついたままのことを書いてしまったが、正直、まだよく咀嚼できていない。冒頭で「絵を見終えた感じがない」「その先を追おうとする感覚が続いている」と書いたのはそういうことで、自分の経験から語れることを軽く超えてしまっている。1枚1枚の絵の前で、とくに晩年に近づけば近づくほど、言葉に変換できない感情が掻き立てられていった。これは「絵画」にしかできないことだと思った。こんなことを思わされる絵は滅多に存在しない。

 そもそも、語るに値する「絵画」とは、ある枠組みから逸脱しているものであって、そのことによりなんの後ろ盾もない場所に届いてしまっている、という性質のものであるはずだ。そういうものに出会えた、とても貴重な展覧会だった。江上茂雄という人を語る資格を自分が持たない点こそ自明に思えるが、話題が持続すること、次の展覧会にもつながっていくことを期待したい。この展覧会を実現させたすべての関係者の方々に、最大限の敬意を表します。