池崎拓也+玉山拓郎 「She saw The C, though」展 界面で、協働(C=collaborate?)する、けれども 鈴木俊晴 評
例えばあなたが日本ではないどこかの、美術館もあって、現代美術を見せる画廊もいくつかあるような街にたまたま出かけていて、そうだな、少し時間もあるし、ギャラリーでも覗いてみようか、と思う。 あるいは、例えばあなたが外国人だったとして、たまたま名古屋にしばらく滞在することになって、週末通りかかったカフェで、コーヒーを飲みながら、WiFiを使わせてもらおうと思ったら、どうやら現代美術も見せていて、せっかくだから覗いてみようか、と思う。
すると、いくつかのポスターのようなものが視界に入る。雑然としたコラージュのようだ。ポーカーでもしているのだろうか、トランプを繰る白人の男女のグループの上に、目玉焼きが乗ったトーストが連なっている。別の一枚にはマッサージの料金表が、いささか怪しげな、サイケデリックな色調に乗せられている。間違えたかな、と思う。人通りもまばらな住宅街のこんなカフェがまさか、いやだからこそ、などと戸惑っていると、カウンターがあって、簡単なキッチンも備えているから、やはりカフェはカフェのようだ。 コーヒーでも飲もうかと思うけれど、カウンターの奥の部屋から漏れる怪しいネオンの光と、不思議な音に誘われて奥に進んでみる。
テーブルがあって、棚がある。モップとホースでできた観葉植物のようなものがあって、壁には南国の景色の写真の上に、少しずれて同じような景色の映像が流れている。
壁にはネオン管が、赤だったり青だったり、どれも違う色を放っている。
天井のハンドミキサーから石がぶら下がっている。それは大きなプラスチックのボトルの水に浮かんでいて、ときおり音を立てて一生懸命に回っている。
机の上には、ハワイのロゴのついたペットボトルとよくわからないマッサージ器具(なのか?)が置かれていて、動物のフィギュアが2つ、その横に仲よさそうに並んでいる。
大きな布が、机からはみ出すように敷かれていて、そこには「Sprial Jetty」と書かれた渦巻きがプリントしてある。
机の下には、フットマッサージの道具だろうか、凹凸のあるものと水を張ったボウルが置かれている。
机の周りを囲うように、IKEAの安いスツールが4つ置かれている。
密やかなのか、あからさまなのか、ともあれここに仕込まれたモダン・アートのコードを見分ける人もいるだろう。例えばそれはジョセフ・コスースの椅子のあれ。あるいは、ネオンにダン・フレイヴィンを思い出すのは無理が過ぎるとしても、机の上下で別れた世界で、グルグル回るものだったり、綺麗にパッケージされたボトルだったり、あるいは、つがいの愛らしいフィギュア、それは確かにデュシャンとは上下も左右もあべこべかもしれないけれど、あの大ガラスがちぐはぐに立体化されているようにも思える。そしてあからさまなスミッソンの渦巻きへの言及。ニューヨーク、フィラデルフィア、ソルトレイク、そして太平洋を渡ってハワイへ……。
左手の棚はどうだろう。もふもふ毛が生えた棚のようなものは左が赤、右が青、その上には、パンダの絵柄のお皿と、ラクダが描かれたお盆。いずれもつがいだ。美術のコード云々ではなく、より直接的に、記号的に、ハワイからまたしても海を挟んで中国大陸へ、そしてユーラシアの中程へ……。そして、ぱきっとした色使いがメンディーニやスターリングの建築、あるいはソットサス(メンフィス)のインテリアを思わせるとしたら、再び芸術の文脈に乗って地中海からイタリアを抜けてヨーロッパへとたどり着くだろう。
棚の下にはモニターがあって、誰かの手が石を揉み続けている。石をマッサージする?「石で」ではなく? 右上には小さなブラウン管のモニター。先ほどの食パンの連なりが、波に乗り、宇宙を飛び交うような不思議な映像が音楽とともに流れている。そこに不意に現れる「feel the difference」の文字。
この空間に並んでいるのは、おおよそいずれも2の倍数で成り立っている。二人の作家による空間。パンダのカップル、スツールは4脚、重ねられたプラスチックの器は6個、スツールにあいた穴は8つ、食パンは10枚……ペットボトルは48本、というように。でなければ、5本の燭台に対し、5本のモップの植物のようなもの、というように「つがい」が別の倍数をつくっている。
しかし、コスースが、「もの」とその代理表象の揺らぎを問うたように、デュシャンは男と女の、ロバート・スミッソンは大地と水域の、その割り切れるはずのものの割り切れなさを扱っていたとしたら、ここで池崎拓也と玉山拓郎の二人が芸術の実践として取り組んだのも、例えば日本人であるとか、ここが日本の名古屋の八事(やごと)であるとか、あるいは二人それぞれ別々の個体であるという当然のことを含めて、いかにも容易に割り切れそうなものが本来的に備えている割り切れなさではないだろうか。つまり、池崎と玉山というまったく異なる個性の、そのあいだの輪郭をむしろ割り切れないものとして相互の浸透を図ること。批評家の中尾拓哉がいみじくも以前の同じ池崎と玉山の二人展について指摘した「界面」が再び問題となっている。ここで「individual」という語を思い浮かべるとますます話がややこしくなってしまうけれど、ともあれ、マルセル・デュシャンが、ちょうど彼の居室にあった半分開いて、半分閉じているドアのように、彼がローズ・セラヴィになったり、戻ったりするとき、言うなればマルセルでも、ローズでもない、蝶番の根っこのところには誰がいたのだろうか。数多の記号、その揺らぎとずれの弾幕の向こうにそういうindividual=個を夢想すること。それが、陸地でもない、水中でもない《スパイラル・ジェッティ》そのものを求めるような、いかにも不可能な、言うなればロマンティックな試みだとしても。
本展でいえば、石――図らずも二人の名前に共通して現れるもの――はいっぽうで静かに愛撫され、他方で激しく、どこか哀れに、回転する。この対極的な所作に二人の作家性を感じ取れるとしても、それを分析し弁別することは、この企図にふさわしい振る舞いではないだろう。重要なのはむしろ、かつてのポストモダンの引用、流用、様式の混合を全球的に加速させつつ、同時に脱臼させながら、素朴と露悪をないまぜに、あべこべにするようなこの空間に、二者の界面を浸透させた末に生まれる、不純だからこそ純粋な、未だ名前のないなにものか――たとえば石そのもの、割り切れない石――を見出そうとする協働の営みである。
あなたもまたここで、あの石のように愛撫されるとともに、激しく揺さぶる側でもある。あなたは強固にあなただけれど、そのいっぽうで、実のところ柔らかにあなた以外の何者かでもある、というように。そのとき、あなたそのものは存在するのだろうか。その名状し難い感覚をそのままに、そう言えばせっかくカフェにいるのだから、もう少しその不思議についてコーヒーでも飲みながら思いを巡らせてみればいい。