1本の線が誘う「Pan」
「TARO IZUMI」「pan」と展覧会タイトルが書かれた白い壁が立ちはだかる傍らから、ニョロッと1本の黒い線が入り口で誘う。自由に振る舞うその線は、不確かな命綱のように、展覧会の会場をぐるりとナビゲートしていた。開放的な空間は果敢に、そしてアクロバティックに、しかし個々の作品を脈々とつなげていくようにつくり込まれている。
最初の部屋の、オオカミの遠吠えのような叫び声をあげる人物の後頭部を映すビデオ作品は、別の部屋からも聞こえてくる遠吠えに呼応する。見えない者どうしの言語を超えた応酬に、異なる言語世界に入り込んでしまったかのような感覚をおぼえた。思いのほか茫洋でありながら、社会の深淵をどこまでも覗き込ませるような禍々しさと、時としてそれを照らすユーモア。薄暗い展示空間がほのめかすものとは何か?
泉太郎の国内外で最大となる個展が今春、パレ・ド・トーキョーで開催された。パリ16区、セーヌ川沿いに位置する東西に分かれた同じ建物の中には、パリ市立近代美術館も入っている。1937年のパリ万国博覧会のために設計されたこの建物は、「東京通り」に面していたことから、パレ・ド・トーキョーと名付けられた。
第一次世界大戦の同盟国であった日本の首都にちなんだ通り名は、第二次世界大戦中に「ニューヨーク通り」と改められたが、建物の名称はそのまま残っている。1999年、『関係性の美学』の著者としても知られるキュレーター、ニコラ・ブリオーや、同じく批評家でキュレーターのジェローム・サンスが共同創設者としてディレクターに就任し、パレ・ド・トーキョーはフランスの同時代アートの中心地になった。2012年には大規模な改装工事を経て、ヨーロッパ最大のコンテンポラリー・アート・センターとなっている。
あらゆる意味が宙吊りになる
さまざまな展示やイベントが同時多発的に行われているこのアクティブなスポットの、1000平米に及ぶ泉太郎の個展会場には、膨大な数の彫刻や映像、インスタレーション作品がたたみかける。入り口の白い壁をかわして中へ入ると、再び巨大なレンガの壁が投影された《To forget the day that I forgot to wear sunscreen》が待つ。これは、ひとつのレンガを長期間、一日中撮影した何百ものショットをデジタルで積み重ねたものだ。その一つひとつのレンガに近づくと、何かが横切る様子なども見える。第1の部屋から、観客は作家の特異なものごとの描写の「壁」に突き当たる。
次の部屋では、サッカーやバスケットボールの選手らによるゲーム中の超人的な瞬間をとらえた画像と、その様子を模した人たちの映像を並列した作品が空間全体を満たす。その下には、選手たちのありえない体勢を再現して固定するべく椅子やテーブルなどの日常的なもので組み立てられたオブジェも置かれている。「スポーツ」というルールの中で限界を超えた、ある意味不自然な身体に、「社会」における私たちの行動も重なりながら、ふたつの映像の時間軸のずれも作用し、あらゆる意味が宙吊りにされる。
その隣の第3の部屋はまた、意表を突いてほぼ空っぽだ。壁に鉛筆で1本の線を描き続ける手元と、その線を腕でなぞるように進むパフォーマーのふたつの映像などがある。そして最後の広大な、カーブして底上げされた空間。ひとつのスクリーンには、狼の遠吠えを真似るように叫ぶ人たちや犬たちが迎え、入り口で背を向けて叫んでいた少年の相手が、ここで明らかになる。
作家のアシスタント、いわゆる裏方をクローズアップした《“Beautiful assistant” series》は、他のアシスタントたちが機材を設置している前で、堂々とただただポーズをとる美しい女性アシスタントや、台座を制作する彼女のおぼつかない手つきを凝視する彼らの姿などを映したシリーズだ。世界の中で背景化しているものについて考えることが、同時にモチーフとして絵画の中心として扱われてきた女性の存在についても考えることにつながったという。
さらにフロアには200足もの靴が揃って点々と置かれている。これらは、最後の壁一面に映し出されたパフォーマンス映像《Worms can differentiate between the laughter and cries of locusts》のために、底上げされた床にパフォーマーたちが足を通した靴のように見える。映像のなかで、帽子を目深にかぶり、極端に「足の短い」人間たちが、ある音の合図で、立ち位置はそのままに体の向きを一斉に変える。ここでもまた社会のルールに盲目に従う人間の姿が、不気味に描かれた。そしてスクリーンに映し出されているその場面に、観客自身があるかもしれないという現実と虚構。
アートという言語で先入観を混乱させる
5年ほど前にフランスで泉作品と出会い、感銘を受けたというパレ・ド・トーキョーの現ディレクターで本展のキュレーター、ジャン・ド・ロワジーは、泉についてこう語る。「泉太郎は、とても詩的な作法によって物事をオーガナイズしていくアーティストです。そして口には出さなくとも、彼にとってそれらの物事すべてに、明瞭な意味があります。作品の多くの側面において、言語の問題が関わっていますが、彼は非常に正確な方法で、しかしたくさんのユーモアによってあらゆることをつなげようとします。私にとって彼は、日本の神話に登場する神、スサノオのような存在に思えます。アートという言語で、すべての模範的なものや学術的なものにおける先入観を混乱させるのです。それはルールなどない比喩的な表現であり、このような仕事をしているアーティストを、私はほかに知りません。実にユニークです。そして政治的ですが、非常に間接的な方法を取っています。作品はうまく構成されながらも、そこにはまた遊び心もあります」。
泉の展示には、具体的な現代の社会情勢を示唆するあからさまな表現はないが、社会のシステムやマイノリティーの存在、ジェンダーなど、多岐にわたる問題意識を読み取ることができる。昨今の主流となっているドキュメンタリーの手法やアーカイブ的な作品のあり方からは、逆流するような表現と言えるかもしれない。作家の鋭い批判精神と想像力、ユーモアが編まれた視覚的にも優れた仕事だ。
展示の最後の部屋には、ふたつのテニスの審判台も置かれていた。会場の監視たちが、そこへ登って観客を見下ろす姿は見られなかったが、ここでも「監視」を意識させられる。もしくは、この空間こそゲームの舞台であることを。