ワタリウム美術館の山田寅次郎展で、異文化交流の意味を考える

日本とトルコの友好関係の礎をつくったと言っても過言ではない、明治時代の青年・山田寅次郎(1866〜1957)。そんな寅次郎を介し、日本とトルコという異なる歴史を持つ2つの国の交流を紹介する展覧会「山田寅次郎展 茶人、トルコと日本をつなぐ」が、ワタリウム美術館でスタートした。

文・写真=王崇橋(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より

 130年余り前の1890年、ある日本人の青年はオスマン帝国軍艦・エルトゥールル号が和歌山県で台風に遭遇し500名以上の乗組員が命を落とした事故に心を痛め、自ら始めた義捐金活動で集めた義捐金を持参しオスマン帝国へと向かうことを決意した。このようなことは、交通手段が発達した現代社会においても非常に珍しいことだろう。

 青年は、1892年にオスマン帝国に到着し、13年にわたり現地に滞在。滞在期間中には、オスマン帝国アブデュルハミト2世の命令により日本の美術品を選定し輸入したり、中村商店を立ち上げ美術工芸品などの貿易を行ったり、日本から来た要人の仲介役を担ったりするなど、後のトルコとなったオスマン帝国と日本の友好関係の礎をつくった。

 トルコの建国100周年にあたり、来年の日本とトルコの国交樹立100周年を迎える2023年、山田寅次郎(1866〜1957)という青年を介し、日土の交流を紹介する展覧会「山田寅次郎展 茶人、トルコと日本をつなぐ」が、ワタリウム美術館で開幕した。

展示風景より

 寅次郎は1866年、上州沼田藩用人・中村家の次男として誕生。15歳のとき、茶道宗徧流七世家元・山田宗寿の養子になり、山田姓となる。東京薬学校(現・東京薬科大学)を卒業後、幸田露伴、尾崎紅葉、福地櫻痴など文化人と交流し、日本初の電話帳といえる「東京百事便」を発行。1905年日本帰国後には、製紙会社を設立し事業家として活躍、57歳の1923年には茶道宗徧流八世家元を襲名した。翌年には日土貿易協会を設立し、理事長として晩年まで日土友好に尽くす。

 1911年、寅次郎はオスマン帝国滞在記『土耳古畫觀(とるこがかん)』(博文館)を出版。2016年に同書は現代語訳とともに復刻され、21年にはトルコ語訳が出版され、現在においてもトルコ研究に関する貴重な資料だ。

 『土耳古畫觀』の現代語訳を手がけた日本トルコ交流協会代表・ヤマンラール水野美奈子は展覧会の開幕にあたり、同書は歴史や地誌などの資料として書かれたものではないとし、「寅次郎自身の思考や好みを表しており、それを読み取るのがひとつの楽しみだ」と話している。

 この本には、寅次郎自身または絵師が写真から描き起こした様々な挿絵が掲載。こうした挿絵をデジタルアニメーションで表現したインスタレーションは、本展の第1章「情熱と愛を持って、オスマン帝国へ出航」で来場者を迎えている。

第1章「情熱と愛を持って、オスマン帝国へ出航」の展示風景より
第1章「情熱と愛を持って、オスマン帝国へ出航」の展示風景より、『土耳古畫觀』の挿絵をデジタルアニメーションで表現した展示

 同章では、エルトゥールル号事故と義捐金活動や、オスマン帝国スルタン(皇帝)アブデュルハミト2世との交流を紹介する映像も、当時の写真や資料とともに展示。まるでタイムスリップしたように寅次郎がオスマン帝国を訪れたときの驚きや感動を伝えている。

 日本帰国後、寅次郎はタバコの巻紙を生産する会社を立ち上げ、実業家としての道を歩む。大阪の自宅をトルコ風に改装し、トルコから日本に来日した人の世話をするなど、帰国後もトルコとの関係を続けていた。

 第2章「寅次郎の書斎へようこそ」では、そんな寅次郎の書斎を再現。オスマン帝国から持ち帰ったテーブルやシガレットケース、物入れなどの品々、晩年、家元として活躍した茶道具、大阪の自宅での写真などが展示されており、当時の雰囲気を味わうことができる。

第2章「寅次郎の書斎へようこそ」の展示風景より、山田寅次郎の書斎を再現した展示
第2章「寅次郎の書斎へようこそ」の展示風景より
第2章「寅次郎の書斎へようこそ」の展示風景より、山田寅次郎が使用していた品々

 続く第3章「忠太と寅次郎の絵ハガキ図書館」では、1904年にオスマン帝国に滞在していた建築家・伊東忠太と寅次郎の交友関係を通じ、当時のオスマン帝国および世界の文化や風景を知ることができる。会場では、旅の途中、忠太から寅次郎に送られてきた絵ハガキ100余点を今回初展示するとともに、絵ハガキを現代語に翻訳し朗読した音声が流れており、忠太自身が撮影した貴重なガラス乾板写真なども並んでいる。

第3章「忠太と寅次郎の絵ハガキ図書館」の展示風景より
第3章「忠太と寅次郎の絵ハガキ図書館」の展示風景より、伊東忠太身が撮影したガラス乾板写真

 上述の水野は、寅次郎を「日本とトルコの国交が開かれる前に民間外交に努めた」人物だと評価し、ワタリウム美術館という現代美術館で本展を開催する意義について次のように述べている。

 「山田寅次郎が行った当時のトルコ(オスマン帝国)の社会は、ヨーロッパの近代化を受け入れていた。アンピールやネオクラシック、ジャポニスムなど、寅次郎は自分の目で見たことのない、いわゆる当時のヨーロッパの“現代”美術を体験した。また、当時はエジプトやギリシャ、ローマン、ビザンティンなどの古代文明が新しく脚光を浴び、博物館で展示された時期だった。それをただ古代の美術を展示するだけでなく、現代の社会のなかでどう解釈し、自分たちの文化のなかで取り入れていくか、というムーヴメントがあった。そういった文化の影響も寅次郎は実際に受けていた」。

 100年以上前に異国の犠牲者に対する同情によりその地に足を踏み入れ、そこで両国の文化を積極的に交流させ、この友好関係を母国にも持ち帰った山田寅次郎。紛争が絶えない現代において、寅次郎の経験は私たちに文化交流の意義や国家間の関係について考える機会を与えてくれるだろう。

編集部

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