日本銀行券のデザインが、2024年度上半期に刷新される。今年4月9日には千円から一万円までの各紙幣、五百円貨幣の新デザインが発表されたが、「新五千円札に使用された津田梅子の肖像画が反転しているのではないか」との声がSNSや主要メディアから上がっている。
この指摘に対し、菅義偉官房長官は16日の記者会見で、「(紙幣デザインは)様々な写真を収集し、それらを参考に国立印刷局の工芸官が彫刻を行って原案を作成する。既存の写真がそのまま日本銀行券の肖像として印刷されることはない」と表明。
この「問題ない」の意見に対して、SNSではアーティストやデザイナーらから以下のようなコメントが上がっている。
津田梅子氏の肖像を反転使用。
— 諏訪敦 Atsushi SUWA (@suwakeitai) April 16, 2019
私は肖像画を手がけることが多いので、その経験からいわせてもらうなら、「問題ない」わけないだろう。
偉人の顔まで改竄してどうする。 https://t.co/QiXRFt06jj
新しい紙幣の津田梅子肖像の左右反転問題。それでいいと思った役人は、バカだと思う。だから、その重大性に気付いてないのだと思う。たとえば、イタリアでモナリザが紙幣に!となって、左右反転してたらと考えれば、それでいいなんて、バカ以外の何者でもない・・・いや、アホ?
— yoshitomo nara (@michinara3) April 16, 2019
津田梅子新五千円札の話。
— Yota Kakuda (@YotaKakuda) April 16, 2019
若いデザイナーや学生には特に伝えたいのですが、顔写真反転加工して印刷物作成はアウトです。図案の反転とは訳が違う。
発行時にはデザインの方が調整して正に戻ると思いたいですが、このままに肖像権侵害を国家が行うなら、文化の底が知れる。「文化が生まれ育つ」の逆。
こうして、反転使用の問題を指摘するいっぽうで、SNS上「なぜそこまで大きな問題になっているのかわからない」という声も散見される。ではなぜ、肖像画を反転してはならないのか? これまで多数の肖像画を手がけてきた画家・諏訪敦に話を聞いた。
諏訪はまず、前置きとして、「写真がどのような撮影環境と技法で撮影されたかを検証しなければ、厳密に元絵の写真が津田梅子の正像を伝えるものかの判断はできません。例えばダゲレオタイプのように、元絵自体が最初から左右反転した像であった可能性もあるからです。しかし、そこまで遡ると議論そのものを迷路に追い込むことになりますし、写真を貸し出した津田塾大学が公式の画像として使用してきた経緯から、この写真を正像と信じるものとしてお話しします」と述べ、次のように説明する。
「反転が問題だというもっとも簡単な理由は、“人間の顔はそもそも左右対称ではない”からです。目の高さ、鼻の曲がり具合、ほくろの位置など、こんなことは誰もが鏡を見れば一目瞭然です。今回俎上にある津田梅子も左右のまぶたの特徴に差が見て取れます。一般的に、鏡で見慣れた顔を自分の顔として認識します。ビデオなどで不意に自分の姿を確認したときに、言い知れない不気味さを感じる理由の一端はそこにあるのでしょう。それほど、いったん脳に刷り込まれた顔の印象は強いものです。
私が肖像画を描くときに幾度も描き直しを繰り返すのは、実見する対象から受け取る印象との“違和感”を解消するためです。それは簡単には終わりの見えない作業で、長い時間をかけ自分の描いてきた顔を見ていると、デッサンの狂いにさえ気付かなくなることもある。脳は自分を騙し、絵に潜在する欠点をわからなくしてしまいます。
そのような都合の良い先入観を追放し、まるで初めて見るように自分の描いた顔を検証するために、古来、画家は鏡を利用してきました。レオナルド・ダ・ヴィンチすら、公平に見られなくなった自作を、誰か他の画家によって描かれているように見るために、鏡を利用したことが伝えられています。このように、鏡像は“誰のものでもない顔”と言えるかもしれません」。
そして、菅官房長官による、「(今回の肖像はあくまで人の手による図案であり)既存の写真がそのまま印刷されることはない」という弁明については、次のように分析する。「あくまで写真は絵を描くための参考として使っているという主張であれば、元絵と向きが反対でも、確かに責めるにはあたらないかもしれません。国立印刷局の工芸官の卓越した技術はこのうえないもので、尊敬に値するものです。ですが人の手で描く限り、顔の左右の向きはそう簡単に変えられるものではなく、そこには違和感が立ち現れるはずです。今回のケースは誰が見ても、写真を素直に反転したものとほとんど変わらないことは明白なのではないでしょうか」。
また、この紙幣が流通する2024年以降の状況について、次のように危惧する。「津田梅子の顔はこういうものだ、と“誰のものでもない顔”が、真正の顔を塗り替え、更新してしまうかもしれません。そしてそれが国家の“信用”の依り代ともいえる紙幣でそれがなされてしまうことは、喜劇的にすら感じます。そして為政者のご都合で誰かの顔を改変しても、国民が危機感を感じないこと。現状でも“それがどうした”と言えてしまう人々が少なからず存在することにも不安を覚えます。つまるところ今回のことで危機感を感じることは、このような事態について丁寧に受け答えをしない為政者の態度から透けて見える、批評の拒絶です。そしてそれが通用し常態化してしまうことは、誰にとっても良くない状況でしょう」。
そして最後に諏訪は、現在の画像が持つ「正しさ」について、印刷物の歴史をふまえ、次のように説明する。「印刷物はその誕生以来、イメージの流布と定着に大きな役割を果たしてきました。そして、ルーカス・クラーナハの銅版画などにより、16世紀には宗教改革の中心人物であるマルティン・ルターの肖像が拡散されました。識字率が低かった当時それは強力な意味を持ち、正確な顔貌を伝えること以上に、望ましい宗教的イメージを刷り込ませるべく意図的に操作することも行われ、多くのバリエーションが存在します。それは、印刷物によるパブリックイメージ操作のもっとも初期の例と思われます。
現代は、ネットでのフェイク画像がもっとも卑近な例ですが、『Photoshop』で画像の修正、発信が誰にでもできることになりました。果ては人工知能を悪用した『ディープフェイク』などという言葉を目にすると、いまや表象にどれほど真正性を担保するような機能が残されているのかわかりません。ほとんど哲学的な問いにまで言及せざるをえないでしょう」。
またいっぽう、紙幣、切手、証券などの印刷を主に行う独立行政法人 国立印刷局のウェブサイト内には「お札に関するよくある質問」というコーナーがあり、ここでの記述にも触れておきたい。同コーナーには、「お札の肖像はどのように選ばれるのですか?」という項目、そしてそれに対して「偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること」との回答が記されている。ここで述べられる「精密さ」と今回の反転騒動のあいだには、大きな隔たりがあるのではないだろうか。