作曲家・武満徹とは何者だったのか? 水野蒼生×畠中実が語る、ジャンルを飛び越え創作に向き合った表現者の多面性【2/3ページ】

ポピュラー音楽や映画音楽も取り入れる自由な創作スタイル

──武満が手がけた作品の特徴についておうかがいします。武満の作品には、《系図 Family Tree》(1992)のようにナレーションや詩がついているものもあります。この手法が生まれた背景をどう考えられますか? 当時としては革新的な手法だったのでしょうか?

水野 クラシック音楽の文脈でいうと、オペラのなかで朗読と音楽を組み合わせる「メロドラマ」という手法がモーツァルトの時代から存在しました。しかし《系図 Family Tree》などはそうした文脈とは異なり、まったく別のアイデアから出てきた革新的なものだと僕は考えています。

 直接的には、武満が数多くの劇伴音楽(劇中伴奏音楽)を手がけていたことが大きく影響しているのではないでしょうか。映像作品では音楽と同時にセリフや環境音が流れることが当たり前なので、朗読を重ねることに違和感がなかったのだと思います。

 また20世紀には、イーゴリ・ストラヴィンスキーの《兵士の物語》(1918)やセルゲイ・プロコフィエフの《ピーターと狼》(1936)といった朗読劇とオーケストラを組み合わせる作品も生まれていました。この時代の象徴的なスタイルであったとも言えます。

畠中 現代作曲家が前衛的な合唱曲を書いたり、詩人とコラボレーションしたりなど、様々な試みがあった時代ですね。武満の場合、《系図Family Tree》でも表れているように「音のある部分」と「音のない部分(沈黙)」の緊張関係を非常に重視しています。ジョン・ケージの「沈黙(というものが存在しない、耳が聴くあらゆる音が音楽であるという考え)」の影響も受けつつ、楽曲内の「音」と「沈黙」の対比やバランスを独特の緊張感として表現していました。《系図Family Tree》の楽譜では、長い休符のあいだに喋らせる指示があったり、厳密なタイミングが指定されている部分があったりと、音とセリフのあいだに緻密な緊張関係がつくり出されています。

水野 武満自身が、西洋的なビート感からの脱却を目指していたことは有名です。「1、2、3、4」と均等に刻む拍は自然界に存在しないという考えから、いかに自然な「間」をつくれるかを研究し、例えば楽譜上は4拍子になっていても「3拍目を少し早めて4拍目を長くする」といった細かな指示が書き込まれています。

──武満は図形楽譜のように演奏者にその表現方法を委ねる作品を手がけていた印象があったので、楽譜に細かく指示が書かれているのは意外です。演奏により異なる音楽が生まれることについてどう考えていたのでしょうか?

畠中 図形楽譜は、演奏者の解釈に大きく依拠する作品のため、演奏ごとに表現が異なる音楽になります。武満が作曲した、青・赤・黄・灰・白の5色の正方形を用いた図形楽譜の作品《ピアニストのためのコロナ》(1962)では、パラメータの設定は武満が担当したいっぽう、楽譜化(グラフィックデザイン)をしたのは杉浦康平で、デザイナーとのコラボレーションによる作品です。

 しかし、武満はずっと非決定性・不定形な音楽だけに傾倒していたわけではありません。1960〜70年代は海外の現代音楽のトレンドである図形楽譜やミュージック・コンクレートを追う傾向が強かったのですが、80年代以降は様式に縛られず、ポピュラー音楽や映画音楽の要素も取り込み、より自由な感覚で制作するようになっていきました。

キュレーター・批評家の畠中実

水野 なぜ80年代以降、海外の形式や動向を追うことに縛られなくなったのでしょうか?

畠中 1970年の大阪万博が大きな転換点になったと言われています。万博では、同時代の電子音楽やテクノロジー・アートが紹介され、カールハインツ・シュトックハウゼンやヤニス・クセナキスといった海外の巨匠が数多く集まり、武満も鉄鋼館でスペースシアターの音楽監督を務めたり、フランソワ・バシェの音響彫刻を用いた作品《シーズンズ》(1970)を手がけました。しかし次第に、日本の作家たちはそうしたテクノロジーに対する反動や自己批判の念を抱きはじめ、電子音楽と距離を置くようになっていきます。評論家の秋山邦晴も「万博以降、日本の作曲家はコンピュータの可能性を追うのをやめてしまった」と指摘しています。

 また、NHKの電子音楽スタジオも、電子音を合成する作曲手法自体が同時代的ではなくなり、80年代から発表される作品が減少したことで、99年に閉鎖しました。電子音楽でも、坂本龍一のように、アカデミズムを出自としながらポピュラー音楽の領域で活動する音楽家が登場するようになりました。

編集部