「『わからない』からこそ、語りたい」。漫画家・美術家 小林エリカインタビュー

放射能の発見から、世界大戦、災害という大きな歴史の現場を舞台に、膨大なリサーチをもとに小説や漫画等様々な方法で作品を生み出す小林エリカ。なぜ物語をつくるのか、そして歴史の中の災厄をいかに語ろうとしているのか、国際交流基金(JF)発行のウェブマガジン『をちこち』最新特集「物語を伝える―災厄を越えて―」からインタビューを紹介する。

小林エリカ わたしのトーチ 2019 Cプリント 54.9×36.7cm(各47点組) 撮影=野川かさね Courtesy of Erika Kobayashi/Yutaka Kikutake Gallery My Torch, 2019, C-print 54.9×36.7cm (each, set of 47) Photo: Kasane Nogawa

──コロナ禍の1年、どのように過ごされていましたか?

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、始めの3ヶ月は子供の通う保育園が閉園になってしまったので、家にずっとこもりきりで子供と過ごしていました。その後は保育園も再開したので、わりといままで通りに働けています。

──コロナがもたらした新しい生活習慣や、時間や空間にまつわる感覚の変化は、小林さんの作品づくりに影響がありますか?

 今回のコロナによる変化に限らず、人々の「目に見えないもの」への脅威に対する反応が、やっぱり一番怖いものだと感じています。

 コロナが発生してすぐに、海外からの渡航者がウイルスを持ち込んだと排他主義が盛り上がったり、弱者に皺寄せがいく状況だったり。2011年の東日本大震災のときには、「放射能を持ち込む」として福島ナンバーの車が根拠なく嫌がられましたが、今回は「ウイルスを持ち込む」と東京ナンバーの車がそうなりました。

 「目に見えないもの」への恐れの対処の仕方を過去から学べていない。東京電力福島原子力発電所の事故で私たちが得たはずの教訓を生かしきれずに相変わらず、科学に基づかない差別や目の前の弱いものにすべてを押し付けようとする態度が助長されている状況には、憤りのような想いも感じています。

小林エリカ わたしの手の中のプロメテウスの火 2019 Cプリント 43.2×35.6cm (各3点組)  撮影=野川かさね Courtesy of Erika Kobayashi/Yutaka Kikutake Gallery

──小林さんの作品には戦争や震災など様々な「災厄」へ至る場面が描かれますが、それはなぜですか?

 自分のなかにはいつでも「不思議」が一番先にあるんです。なんで私がいまここに生きていて、この事態に直面しているんだろうという「不思議」。その理由を知りたがっているんだと思います。

 例えば2011年の震災時には、なんでいま私は、日々の生活のなかで、キノコひとつ買うにも放射線量検査済みかどうかを考えなきゃいけないんだろう、と考えたりしました。現代では、なにかそうした「災厄」が起きたとき、事態を回収・収束させることばかりに注力されます。勿論、それは一番にやるべきことではあります。けれど、私はやっぱり、なぜそれが起きて、このいまのような状態になったのか、という原因を知りたいと思う。誰がどのように望み、どのような決断を下し、いまに至るのか。それは歴史を振り返ってみないとわからない。

 例えば原子爆弾についても、日本では広島や長崎への原爆投下やその悲惨さは、子供の頃からテレビや学校で繰り返し学びます。しかし、じつは日本も原爆を開発しようとしていたという事実を、私は大人になって知りました。そのとき、自分たちも原爆を開発してどこか別の国、たとえば目的地であったサイパンなどへ原爆を落としていたかもしれない、ということに衝撃を受けました。そして、その可能性を無視して話を進めることはできないなと思ったんです。

 原子力発電にしても、それを良いものだと信じて進めた科学者や政治家たちが、いま現在の状況を見てどう考えるか、どう責任を取れるのだろうか。そういうことを考えたい。またそれは、そのひとりだけが負う責任としてではなく、選挙権を持って一緒にその人たちを選んだ私たち一人ひとりの責任として考えたいことでもあります。

小林エリカ 習作 A Study 2019 福島県石川町 大日本帝国陸軍と理化学研究所による第二次世界大戦中の原子爆弾製造計画「ニ号研」にまつわる跡地のひとつ 「"His Last Bow"」展示風景(2019、Yamamoto Keiko Rochaix、ロンドン)Photo by Alex Christie Courtesy of Erika Kobayashi/Yutaka Kikutake Gallery

──納得しきれない事実を前に、その原因を求めることが小林さんを創作へ向かわせているということでしょうか?

 震災後に、原子力発電についても放射能についても、良い/悪いの二元論で語られ過ぎていることに、すごく抵抗がありました。私が『光の子ども』や『マダム・キュリーと朝食を』を発表したときにも、「で、結局あなたの立場は反原発なんですか、原発賛成なんですか、どうですか?」みたいに詰め寄られることが多くて。正直、私は原発に賛成の人にも反対の人にも自分の作品を読んでもらいたい。どちらの立場であっても、歴史は知るべきだと思うし、作品では、賛成/反対、良い/悪いの二元論だけでは片付けられないことを描きたいと思っています。

 例えば放射性物質が放つ燐光の美しさに惹かれたマリ・キュリー。彼女がラジウムをはじめて取り出したとき、あまりの美しさからその輝きを「妖精の光」といって、枕元に置いて寝たというエピソードがあります。結局は、彼女自身も放射線障害で亡くなることになるのですが。

 そのように人が理屈を超えて魅了されてしまうような部分を省いて、ただ放射性物質の恐ろしさや有用性を説くだけでは、私はまた同じことが繰り返されるだけなんじゃないかという気がするんです。

 そこにはやっぱり光や美しさを求めてしまう人間の性(さが)がある。そのことを織り込みながら、それでもそれを持ち続けるか、あるいは手放すか、いったいどうやってそこに向き合うのかという葛藤を作品にしていきたい。

小林エリカ『光の子ども』1(リトルモア)より

──たしかに小林さんの作品には何かを否定も断罪もせず、ただじっと人間を見つめ続けるような姿勢があります。

 私のすごく好きな作家に、スベトラーナ・アレクシエービッチがいます。『チェルノブイリの祈り――未来の物語』をはじめ、人々からの聞き書きをもとに、ノンフィクションでありながら物語が立ち上がるような作品をつくる作家で、ノーベル文学賞も受賞しています。

 彼女の『セカンドハンドの時代』(岩波書店、松本妙子訳)という本の言葉のなかに「わたしは、火のついた松明を持った歴史家ではなく冷静な歴史家でありたい。裁くのは時代にまかせましょう。時代は公平です、でもそれは近い時代ではなく、わたしたちがいなくなった遠い時代。わたしたちの愛着のない時代です」というものを見つけたとき、あぁ、これこそが私自身も求めているものなんだ、と感じました。私の仕事は裁くことじゃなく、書き記すこと。そのことをつねに心に刻んでいたいなと思いました。

 何かを裁いたり、アジテート(扇動)したりするような書き方のほうが伝わりやすいかもしれない、満足されやすいかもしれない。けれど、そうではないところでただ淡々といまを、時代を、書き留めていきたいという気持ちが強くあります。

──これまでの小林さんの作品のほとんどが物語という形式を取られていますが、物語は通常、何かしらの感情へ導く形式です。これまでお話しされた「裁くことなく書き記したい」という欲求には、むしろ不向きにも思える物語という形式を、なぜ選び続けるのでしょうか?

 私もそれ、ほんとにわからないんですけど(笑)、やっぱり物語が好きなんだと思います。

 私は子供のときにアンネ・フランクの『アンネの日記』を読んで作家になりたいと思ったので、日記も文学だと思っているところがあります。私自身の心の中ではすべてが文学であり物語である、というか。ノンフィクションとフィクション、小説と漫画、などという境があまりないんです。アンネが日記を書き、隠れ家の壁を自分で描いた絵やポストカードで飾っていたような感覚が、形式にこだわらず物語も日記もインスタレーションも均等に行うようなメンタリティーとして、私の原点になっているのかなと思います。

 私は自分の心に一番誠実に向き合える手段を選びたい。そのとき、手法自体はどんなものでも良いと思っています。

──小林さんは何をきっかけに作品づくりを始めますか? 自分に起きた出来事がきっかけになるのか、興味あることを調べるなかで書きたいことを熟成していくのか。

 私は小説を書く作業のなかで記録を調べたり、実際その地に足を運んだりするリサーチに一番時間をかけるので、熟成タイプでしょうか。とにかくずっと気になったことを調べ続けています。『光の子ども』もほかの作品も、結局10年くらいはずっと調べ続けて、ようやく出てきてくれたという感じです。

──小林さん自身は、放射性物質が発見された場面にも、原発事故にも実際に立ち会ったわけではありませんが、繰り返しそのことを物語につづり続けています。当事者ではない誰かが、ある出来事を「物語として語り継ぐこと」について、どう考えていますか?

 そのことは、いまでもずっと考え続けています。はじめのうちは、当事者ではない私に何が書けるんだろうとか、部外者である私に何がわかるんだろう、とも考えていました。ただいっぽうで、例えば外国から見れば私自身も当事者として扱われることもあり、そもそも、どこまでをどう線引きするのか。その間で揺れていました。

 ですが昨年、勇気づけられることがありました。「鉄犬ヘテロトピア文学賞」に『トリニティ、トリニティ、トリニティ』を選出いただいたのですが、その際に同時受賞されたのが、小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMPQUAKES)と瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)でした。どちらも、自分自身が部外者であることを規定しつつ、けれどそれでも、懸命に耳を傾け、小さな声を聞き取り、語りをつなげてゆこうとする作品です。

 小野和子さんは、これまで50年にわたり東北の村々を訪ね、民話を採訪されてきた方です。揺れながら、迷いながらも、声に耳を傾け、語りを書き記し、歩き続ける。その姿勢に感銘を受けました。

 以来、私も起きた出来事とどのように向き合い、それをどういうふうに語り継いでいくか、どういうふうに物語にしていまを生きる私たちや未来へつなげていくのか、ということを考えていきたいと思うようになりました。

 私の創作の原点は、自分がなぜここに、こういう状況で生きているのかという「不思議」と向き合うことなので、どうしても自分という視点からしか作品をつくれません。『親愛なるキティーたちへ』は、アンネ・フランクの日記と、アンネと同じ年の生まれだった父が16歳から17歳の戦中と戦後に書いていた日記を携えて、アンネの足跡をたどる作品でした。

 父の80歳の誕生日を祝うために戻った実家で、かつての父の日記を見つけたのですが、その後はじめてアンネも生きていたら80歳になっていたかもしれないのだ、ということに私は気づきました。私にとってのアンネは、いつも十代の少女のイメージでしたが、おばさんや、おばあさんになったアンネの言葉を読みたかったと、そのとき、切実に願いました。

 また、それまで私は、一緒に暮らしてきた父のことを、家族ですからなんでも知っていると思っていました。だけどその日記に戦時中、「又一日、命が延びた」と書きつけていた16歳の父は、私がまったく知らない父の姿でした。父は私に戦争のことをあまり話したりしませんでしたから。そのとき、どれほど親しい相手でもわかり得ないことや語り得ないことはあるのだということを思い知りました。でも、それは必ずしも絶望的なことではありません。むしろその事実を前提としてなお、わからないからこそ、知り得ないからこそ、どこまで相手のことを知ろうとすることが想像することができるのか、作品づくりを通して探っていきたいと思うようになったのです。

小林エリカ 親愛なるキティーたちへ 2冊の日記たち 2011 Your Dear Kitty, 2 Diaries,2011 アンネ・フランクの日記1942-1944、父の日記1945-1946 Anne Frank's diary 1942-1944, My Father's diary 1945-1946 video 6min48sec

──相手のなかにある「目に見えないもの」を触りにいくような作業ですね。

 どれほど親しくてもわからないところがあるというのは、考えてみると当たり前のことです。ただその部分に近づくためには、やっぱり書き残されたものや資料、過去の歴史をどれだけ丁寧に調べられるかにかかってきます。だからこそリサーチはいつでも、なるべく丁寧にやりたいと思っています。

──調べていくなかで、自分ではない誰かに接近していくのは、自分に相手を憑依させていくような感覚なのでしょうか?

 いえ、やっぱり自分の根底には「他人のことはわかり得ない」という思いがあるので、意識的に「わからない」を大きな前提として置くことが、とても大事なことだと思っています。

 全部わかったつもりになれば、もっと書けることもあるんだろうと思いますが、やっぱり基本は「わからない」という姿勢を忘れずにいたい。そのことを前提に置いたままで、どういうことが書けるのかということに、ずっと挑戦しているんだと思います。

──「わからない」という前提を忘れない姿勢とは、とても誠実なものですね。

 それは、他人の心のうちだけではなく、ほかのことに対しても同じ気持ちです。人は、わからないとつい考えるのをやめたり、放棄したりしてしまうことが多いかもしれません。

 とくに放射能の問題なんかはとても複雑だし難しいから、わからない、間違っているかもしれない、と口をつぐんでしまうことも多いと思います。でも、すべてをわかるなんて、そもそも不可能です。それに、すべてをわからなくても、誰もがそれを知ろうとすることはできるし、どんな人にも自分の意見や想いを語る権利があると思うんです。

 だからこそ、それを知ったり語ったりするために少しでも参考になればと、私は『光の子ども』を書いたところがあります。

──ここまでのお話をお聞きすると、2010年代以降にテーマが明確になっていく小林さんの作品よりずっと前に発表された『空爆の日に会いましょう』(*) も、「わからない」という感覚を自分の身体に引き寄せる、当事者性についての作品だったのかもしれないと感じます。

 やっていた当時はどうしてそれをやるのか闇雲だったところもありますが、いま振り返ってみると、ずっと同じテーマに関心があったということに我ながら驚きます。どうしたら、遠くの誰かの痛みや苦しみ、死というものを「自分ごと」として考えることができるのか。そして当事者ではない人間がそのことを語ったり、体感を伴って誰かに伝えていったりすることができるのか。そこには答えがないけれども、ずっと知りたいと思っています。だからこそいまも作品づくりを続けているんだと思います。

──現実が物語を超越してしまうような極端な出来事が続く昨今の状況のなかで、物語や作家の果たす役割が変わっていくことはあると思いますか?

 なんかもう現実がジョークみたいな感じですよね。コロナの感染に際しても政府がお肉券の配布を真面目に検討していたとか、自分が作家だったら書けそうにない、突飛過ぎることが実際に起きています。

 ただ、歴史を振り返ってみると、じつはいつの時代も現実は突飛で、あり得ないようなことばかりなんですよね。先ほどお話したマリ・キュリーがラジウムを枕元に置いて寝ていたという話も現実離れしているし、戦時中なんて調べるにつけ、ひたすら突飛な出来事の連続です。だから、いまこのときをことさらに特別とせず、突飛な現実のなかで作家は物語をただ書き続けるしかないのかもしれません。

 私の好きなシャーロック・ホームズのなかには、「人生というのは、人間の頭で考えつく、いかなるものよりも、はるかにふしぎなものだね」という科白があります。「結末のわかりきった小説などはみな新鮮味がなくなって、何の役にも立たないものになるだろうね」という皮肉と議論が続くのですが、ホームズが著された19世紀でさえそうなのだから、常々作家とは、創作を上回る現実にがっくりさせられながらも書き続けるのが仕事なのかなと思います。

──これから数百年後の未来には、「物語」はどのようものとして在ると思いますか?

 えー? それは私が知りたいですね(笑)。またマリ・キュリーの話になってしまうのですが、彼女が実際に使っていた実験ノートを明星大学の図書館で見せていただいたことがあります。見た目は普通の布張りのノートなのですが、線量計を翳すと、いまだに線量が高いのがわかります。彼女が素手でラジウムやポロニウムを扱っていたので、彼女の指紋の部分は、いまだに放射線量が高いのだ、と教えられました。

 ラジウム226の半減期は1601年と言われているので、彼女が1902年にそれを触ったのだとしたら、半減期を迎えるのは西暦3503年。一世代を30年としてみると、それは53世代先の子供たちが生きている未来ということになる。そのときにはもうマリ・キュリーという名前すら忘れられているかもしれませんが、そこに彼女の指紋だけは残り続けるんだと思ったとき、私はなんだか恐ろしいと同時に感慨深い気持ちになりました。

 ある痕跡がずっと先まで残って、それを誰かが見つけるかもしれない。そのこと自体に、私は希望さえ抱いています。

 ちょうど千年前に描かれた『和泉式部日記』をいまを生きる私たちが読むように、千年後の未来を生きる誰かは、いま私たちが残した何らかの痕跡をみつけるかもしれない。「物語の未来」はわかりませんが、百年千年後にも残り続ける痕跡がある、ということはしばしば考えます。

小林エリカ 彼女たちは待っていた 2019 「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」(国立新美術館、2019) 撮影=中川周 Courtesy of Erika Kobayashi/Yutaka Kikutake Gallery

──小林さんがいま創作活動をしているのは痕跡を残すためでしょうか?

 子供のころは、自分が何も残さずに死んでなくなることがすごく怖いと感じていました。何かを残したいとか、死にたくないという以上に、「生きた痕跡を残したい」という気持ちから、早く作家になって作品を残したいと強く思っていました。

 大人になり、実際作家になって、一生懸命に書きましたが、ある時、どれだけ一生懸命に書いても、すべては書ききれない、という当たり前のことに気がつきました。すべてを記録し、すべてを残すことなんて不可能で、それどころか自分にとってどんなに貴重な一瞬でさえも書き留められぬまま過ぎていくことの方がずっと多いのです。

 私が何かの歴史や記録を調べるとき、たった1行の記録で終わってしまうような事柄や、名前さえ書き残されていない人物や出来事に出くわすことがあります。けれど、私にはそれが書き残されていないからといって重要ではないとは、思えなくなったのです。以来、私は書かれなかった人や事の痕跡を懸命に探し、そこに書かれることのなかった人の人生や事柄を書きたいと願うようになりました。

 そこに生きた一人ひとりの日常はどんなものだったんだろう、と想像を始めたときに、自分のなかで物語が立ち上がっていく。何も残さずに死んだ人たちの、もしかしたら貴重で大切だったかもしれない一瞬を、歴史の記録の行間に見つけて書き留めること。最近の私は、そのために書きたいと思っています。

──自分のための痕跡づくりから、誰かの痕跡づくりへと変化した感じでしょうか?

 私が懸命に過去の痕跡から何かを書きとめようとするように、私というひとりの人間も、いまを生きる私たちもまた、いつか未来の誰かに見つけてもらえるかもしれない。いまの私にはすごく希望のあることに思えるんです。

──小林さんの作品に登場する「未来」は、「誰もが自ら選び取る責任があるもの」として登場しているように思います。

 『親愛なるキティーたちへ』でアンネの足取りをたどる旅をしたとき、彼女が死んでしまった場所から生まれた場所へ向かう旅程を取りました。そうしてまず彼女が亡くなったベルゲン・ベルゼンの収容所を訪れたとき、「もしここが、あと1ヶ月早く解放されていたら、アンネは死なずにすんだんじゃないか」と思ったんです。

 そこからアウシュヴィッツを経て、アムステルダムの隠れ家に着いたとき、今度は「もしここが、あと数日だけ密告されずに済んでいれば、アンネは死ななかったんじゃないか」とも考えました。

 そして最後にドイツ、フランクフルトの彼女の生家に着いたときに、「もし誰もナチ・ドイツに投票していなければ、アンネが死ぬことはなかったんじゃないか」ということに気づきます。そのとき、ひとりの選択が、未来の誰かの、生きるか死ぬかを決めているのだ、という事実を、はじめて強く実感したんです。それはそのまま、いま私の選択が、未来の誰かを生かすことにも殺すことにもつながっているんだということでもあると、思い知らされたのです。

──これほど歴史からの教訓が生かされない現実を前に、落胆されることはありませんか?

 歴史を振り返りながら漫画を書いていたりすると、思わず「待った」をかけたくなる場面がたくさんあります。ここでああしておけば、こうしておけば、と未来から振り返れば突っ込みたくなるような分岐点がいくつもあります。同時に、いま私自身も、巨大な流れの中で、その事態を止めきれない、抗いきれないもどかしさを抱くことが多くあります。もしかしたら歴史的な分岐点にあたるような数々の場面においても、こんな気持ちを抱きながら流されたり巻き込まれたりするしかなかった人々がいたのかもしれないと実感すると、恐ろしい気持ちになります。

 だからといってくじけることなく、私は踏ん張りつづけたいと思っています。やっぱり、自分の選択にどれだけ責任があるかを自覚して選ぶことが大切。その結果がたとえ不本意であったとしても後悔の度合いがずっと違ってくると私は思います。

 そのためにも、10年後や20年後の未来からいまを振り返る視点を、いつでも自分のなかに持っていたい。いま、私自身も含め、みんな忙しいし、自分のことだけでも手いっぱいで、目先の利益を選んでしまいたくなることも多いと思います。だけどその自分の選択が、未来の自分や誰かに何をもたらすことになるのか。それを考えるきっかけを、私は作品を通してこれからも一緒に考え続けていけたらと思っています。

*──『空爆の日に会いましょう』は9.11アメリカ同時多発テロの翌月から開始されたアフガニスタン空爆に際し、空爆が実施された日に小林自身が東京で他人の家に泊まり、その夜見た夢日記をつけるというプロジェクト。泊まった家の家主にはその日空爆された場所と死者数を伝えつつ、詳細な日常の記録を日記形式で綴った133日間の記録。

聞き手・文=三好剛平(三声舎)

小林エリカ 撮影=森本美絵
 

編集部

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