五感を超えた「素知覚」で触れた世界を視覚化する。畑山太志インタビュー

「素知覚」(そちかく)と自ら名付けた、五感に分類できないありのままの知覚でとらえた世界を絵画で表現する畑山太志。個展「空間体」を開催中のギャラリー、EUKARYOTEで話を聞いた。

文・写真=中島良平

ギャラリーでの畑山太志

──今回の個展は、3フロアにわたって展開されています。2階に展示された作品のような、白い絵画のシリーズが学部生時代に最初にかたちになった作品だとうかがいました。白い作品の制作技法が生まれた経緯をお聞かせください。

 白い作風ができたのは2013年ごろで、まだ「素知覚」という言葉もなく、目に見えないものをどうとらえるかという考えのもとで絵画表現を模索していました。

2階展示風景より、《空間差》(2022)

 話をさかのぼると、高校生の頃は学校の資料集などを参照しながら、細密画のようなペン画を好んで描いていました。生命も非生命も等価に扱い《共存》というタイトルを付け、いろいろな事物を集積させてタワーを形成していくような作品です。だけど、描けば描くほど画面は黒くなっていきます。大学に進学後は、反動のように白い空間を描くことへの憧れが生まれ、それまでのペン画が好きだった感覚とその憧れが同居しなかったので、試行錯誤を重ねました。その結果、黒いドローイングの上から緻密な白い描画を重ねる手法に至りました。いまはペン画ではなく、アクリル絵具でのドローイングに白い描画を重ねるようにして作品を制作しています。

──白い描画の作風を手に入れ、「素知覚」の語が生まれるまでのプロセスを教えてください。

 2013年に一度白い作品が完成して、描けば描くほど画面が白くなっていくことが実践から導かれました。それから色の展開を5〜6年探り、2020年に個展を行う際に久しぶりに白い絵を描くことになりました。もともと目に見えないものをどうとらえるか、人間の知覚の外側にあるものにどうタッチすることができるかということを、絵画を通じてずっと考えてきました。例えば、森の中に入ったときに感じる空気感や、巨大な樹木に対峙したときの見えている物質以上の存在感など、言語化できず目にも見えないけれど伝わってくるものがあります。言語の外側にある領域で、五感にも集約されない感覚が人間には備わっていると思っていて、それをありのままの知覚という意味で「素知覚」と名付けました。それで感じられる目に見えないものをとらえることが、自分にとっての作品制作だと考えています。

2階展示風景より。畑山は白い作品だけに囲まれる空間づくりにも意欲を見せる。左から《もうひとつの世界を思う》(2022)、《知覚の恢復》(2022)《私は光、私は空気、私は水》(2022)

──「目に見えないものをどうとらえるか」というテーマは現在も一貫していて、そこから「空間体」と題する今回の個展タイトルにはどのような展開があったのでしょうか。

 2020年の個展では、目に見えない世界に触れるためには、自分の身体感覚に敏感になり、そこに照準を合わせることが重要なのではないかと考えました。いっぽうで今回は、自分の感覚に敏感になるよりも、自分をも取り込んでいる場や環境、空間という、より外側の視点からアプローチできないかと試みました。そこでひとつ影響を受けたのが、リン・マーギュリスという生物学者が著書で取りあげた「ホロビオント」という考え方です。造礁サンゴのことが具体例に挙げられるのですが、菌類など複数の生物種によって織りなされる超個体として造礁サンゴは成立していて、不可分の全体としての生命体ができ上がっているというような内容を「ホロビオント」の語で説明しています。この考えにインスピレーションを受け、展開していきました。

 人間の体内にも無数の微生物が住んでいるように、人間の一個体性というのも非常に曖昧なものですし、人間が生きている社会や都市空間も、いろいろな生命と非生命が関わってつくり上げられているものです。森もひとつの生態系だととらえられるし、視点の置く場所によりスケールも生命のカテゴライズも変わる。生命と非生命の区別なく様々なもので構成される空間を生命体のようなイメージととらえ、「空間体」というタイトルを付けました。

──その視点の変化の実践について、今回の出品作で説明していただけますか。

 《私は光、私は空気、私は水》という、水面を描くことからスタートした白い100号の作品があります。完成した絵を見て、自分が見た風景ではない視点から描かれているような感覚を覚えました。どこか浮遊したところから見たような、あるいは別の映像体験にいるような、自分の輪郭が周囲に融和し、他者との境界を揺らがせて浸透していくような感覚です。自分が光になって空間を見たり、自分が空気になって光を見たり、自分が空気中の水分になって見たときに世界がどう見えるかということを想起させるイメージで、このタイトルにしました。

2階展示風景より、《私は光、私は空気、私は水》(2022)

──技法的にも新たな取り組みをした結果、その感覚が画面に表現されたのでしょうか。

 以前は、森や木などをモチーフに、画面にテクスチャーがつき粒々が覆っていくような、目で触れるようなイメージで画面をつくる感覚がありました。しかし今回の個展に向けて水面やガラス面を描くようになり、グレーズ(焼き物の釉薬、ガラス)っぽい白の重ねで作品を完成させる方法も採用するようになりました。物質的で彫刻的であった画面のテクスチャーが薄れていくと、透けるような白い画面からは揺らぎや映像的な感覚を表現できるようになります。テクスチャーからヴィジョンへの移行のようなものが起こるのです。見えないものへの知覚に対する探求がそのグレーズのような画面づくりに展開したことで、自分が忘れていた記憶や、誰しもが持っている記憶の残像にタッチするような不思議な感覚を作品で表現できるのではないかと実感することができました。

《対存在》(2022)では、テクスチャーを強調する表現とグレーズ調の描写を同居させた
《対存在》部分(2022)

──白い作品では、具体的な風景から白い描画により抽象化するプロセスが採られていますが、色彩を用いた作品はどのようなプロセスで制作されているのでしょうか。

  先ほど、白い絵が2013年に完成し、そのあとの5〜6年で色の展開を探ったと申し上げました。まず学部の卒業制作で、フィンランドの森の絵を描いたことが始まりです。当時フィンランドへ旅行した際、森の中を歩いていると木が倒れて土が盛り上がり、近づくとただの塊なのですが、離れて見ると得体の知れない化け物みたいな不思議な物体に出会いました。まるで未知の生命体と出会ったような感覚を覚え、自分のリアリティの外側にあるリアリティを描こうとしました。

 ただ、画面に土の塊をいくつか描くと、当然ながら画面に主役が生まれ、そこに目がいく構図となりそれが腑に落ちなかったんですね。すべてを等価に扱いたいという思いがあるので、ここから表現は抽象的な展開に進んでいきました。大学院の1年では、世界地図を抽象化した作品を描きました。世界地図なのでオールオーバーに絵具が配置されますから、俯瞰した世界で、すべての存在が同一のレベルで存在している感覚を画面に展開しようと抽象作品に取り組むきっかけとなりました。抽象画でありながら風景に見えるパースペクティブを持っている、そんな「場」「空間」をつくるイメージで制作しています。

3階展示風景より。左から《植物滝》(2022)、《星図 #12》(2022)、《惑星の建設》(2022)。大学院1年次に取り組み始めた抽象表現からダイレクトに延長線上にあるのが3階の作品だという

──今回の個展では、1階と3階の作品でアウトプットの印象が異なります。どのように棲み分けを行っていますか。

 空間や環境を表出させるという部分では、各階つながっています。3階の作品は有機的な筆触で作品が完成している部分が大きく、いっぽうで1階の作品にはより直線が入り、人工的で無機的な感覚を積極的に取り込んでいます。自分は生命非生命という話をするときに、無機物のようなものも生命的なものとしてとらえたいという思いがあり、3階の有機的なものだけではなく、1階のより無機的で人工的な感覚を取り入れた作品を組み合わせることで、そのような世界観を伝えられないかと計画しました。

1階展示室で《高気圧》(2022)を前に線的な描写について説明する畑山
1階展示より、《空間体》(2022)

──なかでも1階には、個展タイトルと同じ《空間体》も並び、非生命も含む要素が空間の総体を構成するという解釈が伝わってきます。

 3階には、より絵具のテクスチャーを取り込んだ作品を展示しています。1階の《空間体》は、色の繊細なやりとりで透けている空間を構築しているので、《私は光、私は空気、私は水》という白い絵で得たような、自分の視点ではないところから景色を見ているような感覚に接近できたかもしれません。

1階展示風景より、《空間体 #2》(2022)

──同じシリーズの作品でも毎回新しいことにトライし、「目に見えないものをとらえる」アプローチの方法を増やし続けているような印象を受けます。

 描くことが好きであることが大前提で、さらに続ける動機は、絵を描くのは自分にとって未知の領域に触れることだからです。自分が用意したものをアウトプットしていくのではなくて、描くという行為を通じて絵から新しい発見を教えてもらうような、対話のプロセスがあります。絵は常に新しい世界を見せてくれますし、自分の忘れていた何かを絵が思い出させてくれることもあります。通常の時間軸とは異なる時間の領域に入っていく感覚があり、絵画の創作の現場に身を浸すことが、世界のリアリティに触れることと重なっているような気もしています。描くと世界がスッキリ見えてきて、様々な情報に惑わされずに自分の立脚点を保ち続けられる感覚があります。

──リン・マーギュリスの「ホロビオント」に言及されたように、生物学や哲学などの概念からも影響を受け、絵画表現に取り入れられています。描く行為を通して、書籍から得たそうした概念がクリアになることも多いのでしょうか。

 本は好きなのでいろいろ読んでいますが、究極的には、そうした概念的な要素と絵はまったく関係のないものだと思っています。ひとつの新しい概念を正しく解釈することよりも、概念や言葉に触れたときに、自分のなかに湧き起こるイメージや可能性、ワクワクしてエネルギーが生まれることこそが大事なはずです。

 「ホロビオント」を知ったのと同じような時期に、小林秀雄が本居宣長の研究について語っている本を読みました。本居宣長による「考える」という言葉の語源についての説明が、非常に興味深かったです。「か」は接頭語か何かで意味はなく、「むかふ」というのが「考える」のもとの言葉だというのです。その「むかふ」は「身交ふ」と書き、身を交えることが語源にあるといったような内容が著されていました。「考える」とは、対象から距離を取って分析し理解するような感じだと思ってきましたが、そうではなく、その人やもののことを本気で思い、自他の境界が曖昧になるプロセスを経て本気で考えられるということなのだと。つまり、親が子のことをなぜ直感的に理解できるのかというと、その子のことを愛しているからであり、考える深さは、自他の境界を超えたところにあるからだろうかと感じました。ホロビオントとも共通しますし、「素知覚」にも通じていると感じ、そういう刺激は新たな創作の原動力になります。

3階展示風景より。左から《珪化木の時間》(2022)、《静寂の会話 #1》(2022)
3階展示風景より《星の転回》(2022)

──最後に、作品制作を通してどのような達成を目指していますか?

 白い絵も色彩を用いた作品も含め、並行していくつかの制作を続けています。シリーズの区分けなどは便宜的で非常に曖昧なものであり、プレゼンテーションのひとつだと思っています。いずれの作品も緩やかなグラデーションで世界観はつながっていて、幅広い表現を続けることによってようやく自分が考える世界観が表出し始めています。徐々に自分の世界が見え始めているというか、だんだんその世界の解像度が上がってきている感覚があるので、描き続けることで、見える世界を広げていきたいと思います。解像度が上がることにより、良い意味でさらにわからないものも増えてきて、さらにその先、未知の領域に向かえるはずです。

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