シャワンダ・コーベット(Shawanda Corbett)は、アメリカ出身で、現在はイギリスのロンドンを拠点として活動する新進気鋭のアーティストである。コーベットの芸術実践は、多彩なメディウムを駆使し、ジャンルを超越して複合的に展開される。その表現は、私たちの認知や経験といった側面、あるいは身体と空間の相互関係について重要な問いを投げかける。
また、アフリカ系アメリカ人のルーツを有し、身体に障害を抱えるコーベットの作品には、しばしば人種/民族と障害に関する鋭い視点と洞察が内包されている。コーベットはイギリスで博士過程に在籍しており、芸術・技術と人種の相互関係についての論文を執筆した。筆者は、現在コーベットの個展「Down the road」(〜4月23日)を開催している東京・渋谷のギャラリー、SAIにて、4月初旬に作家へのインタビューを行った。インタビューは英語でなされ、翻訳および編集は筆者の手による。
すべての作品が同期するようなメディウムの使い分け
──絵画、パフォーマンス、映像、陶芸、音楽など、あなたの芸術実践は驚くほど領域横断的です。こうした領域横断性は、いかにして形成されたのでしょうか。また、どのようにメディウムを使い分けているのですか。
シャワンダ・コーベット(以下、コーベット) 最初は陶芸を学んでいましたが、次第に学部時代の副専攻であった演劇の美術的な側面を深く探究したいと考え、制作にパフォーマンスを取り入れるようになりました。さらにギリシャ演劇などを研究するなかで、パフォーマンスが音楽と深く結びついていることや、陶芸がライブパフォーマンスの記録として用いられていた歴史があることを知りました。
博士課程のスタジオ演習の一環として、ライブパフォーマンスやパフォーマンスを撮影した映像制作に取り組むようになりました。さらに、それをスケッチする過程で抽象的な対称的形態や色彩論に関心を持ち始め、それが絵画やドローイングにつながるのですが、このようなかたちで、徐々にそれぞれのメディウムが相互連関していったのです。
メディウムの使い分けですが、私は別々の何かをつくるのではなく、すべての作品が同期して初めて機能するようにしたいと思っています。陶芸の基本的原理は、異なる個々に自律する要素が組み合わさってひとつの全体性=器を構成することです。ですから、陶芸の原理をほかのあらゆるメディウムにも応用し、すべてをひとつにまとめたいと考えたのです。
──音楽も、あなたの実践の重要な一部をなしているのですね。芸術における視覚的要素と聴覚的要素の連関については、どうお考えですか。
コーベット 私は本質的に音楽的な要素を用いて、楽譜をつくるように絵画や彫刻をつくりたいと考えています。作曲の際に図形楽譜を使っているのですが(筆者注:コーベットは映像作品における音楽を自ら作曲している)、それはシンプルに言えばリズムのあるかたちです。線の長さや太さは、ピッチの長さとその回数によって決まるのです。こうしたところに、私の作品における視覚的要素と聴覚的要素の連関があると感じます。
──ありがとうございます。今回のインタビューでは、あなたが用いるメディウムのなかでも「陶器(ceramic)」に注目したいと思います。なぜなら、陶器は一般的に「工芸」、すなわちしばしば「美術」から疎外されてきた領域に属するからです。これはとくに近代日本に特有の状況ですが、程度の差はあれ、欧米圏でも似たような面があります。陶器というメディウムを、どうとらえていますか。
コーベット 私にとって、陶芸を学ぶことは自身の視覚言語を開発するために必要なプロセスだったので、自らのルーツに関わる黒人の身体性と結びついた器や表現を追求しています。その過程で、陶芸という表現形態に一種の神聖な要素があることを知り、文化的盗用を慎重に避けるという意識を持つようになりました。ですから日本の陶芸だけでなく、アフリカの陶芸やアメリカ先住民の陶芸の独自の意義も認めています。それぞれの土地の人々が、多様な系統の陶芸を発展させてきたことに、私たちは敬意を払う必要があります。つまり、陶芸は文化ごとの特殊性が表れたものなのです。
また、どのような場所で陶芸の作品が展示されるのかで、すべての要素が変動します。すなわち、それが置かれる空間により、作品がどれくらいの大きさ/高さな/ボリューム感なのかが決まってくるのです。それによって、どのような種類の粘土を使うかを判断することになります。
──それに関して、陶器は様々なメディウムのなかでも、制作過程において完成形をコントロールしにくいものだと思うのですが、いかがでしょうか。
コーベット 最終形態の予測不可能性、制御不能性という(ネガティブな)表現より、個人的には、窯とコラボレーションするというとらえ方が気に入っています。窯とのコラボレーションのなかで、器の一部が完全に圧縮されず、少しゆったりとした部分ができることがあります。だから私はこの協働が大好きで、ある意味で(即興を重視する)ジャズに似ている部分があるとも感じます。
アートを介した脱植民地化や人種的平等の探求
──興味深いとらえ方ですね。ここで話題をガラリと変えましょう。帝国主義や植民地支配の遺産からの解放は、いまや人類にとって喫緊の課題です。通常、帝国主義や植民地支配の主体は欧米諸国だと考えられがちですが、ここ日本もまた、ほかのアジア諸国を侵略・支配した旧帝国であり、脱植民地化の問題と無関係ではありません。あなたの実践における「脱植民地化」という概念の位置づけについて、お聞かせください。
コーベット 私はアフリカ系アメリカ人の歴史を、植民地支配だけではなく、奴隷制の開始から学んできました。そうして、自分たちが、どのようにして先祖と切り離されてきたのかを理解したのです。その過程で、心理学者との対話を通して、暴力にはどのような種類があるのかについて考えてきました。暴力は肉体的なものだけでなく、言葉などによって他者を傷つけるような精神的なものも含みます。また、暴力には相手のモラルに反する行為をさせたり、異なる事実を信じ込ませたりするものもあるということについても議論しました。植民地主義が行使した暴力にはこうしたタイプの暴力もあり、故に精神的な脱植民地化が不可欠なのです。
ポスト植民地的な世界において、かつての被植民者は「他者の現実」のなかで生きています。「自己の現実」がなんであるかを見つけるには長い時間がかかるのですが、脱植民地化のプロセスは、それを発見していくプロセスにほかなりません。
私はここ数年、自分の作品を脱植民地化し、白人・西洋人の歴史に立脚しないものにするよう努めています。自分自身のルーツにまつわる植民地的遺産を正しく認識し、それがいかに複雑なものであるかを把握し、西洋、アフリカ、先住民、そしてイランによる複合的な文化を作品のなかで活用できるようになりました。そうして私自身や私の考え、そしてほかの地域から歴史を読み替えることが脱植民地化につながり、故に、私がミケランジェロなどの規範的とされてきた芸術作品を制作の基準にすることはないのです。
──アートの可能性については、どうお考えですか。「脱植民地化」という挑戦に対して、アートはどのように取り組むことができるのでしょうか。
コーベット アートが関わる視覚的・感覚的なものは、植民地化するための道具でしたが、脱植民地化するための道具にもなりえます。それは、私たちの潜在意識に働きかけることができるからです。
──先ほどおっしゃっていたように、植民地主義は暴力を通じた領土支配の終焉後も、私たちの心の領域で機能する認識論的植民地化とも呼べるものを残しました。ですから、アートは独自の視覚的・感覚的言語を使って、そうした形態の植民地的遺産に対して脱植民地化を図るわけですね。
コーベット はい。とくにオックスフォード大学では(筆者注:コーベットはオックスフォード大学ラスキン美術学校で博士課程に在籍している)、あなたが言うような「認識論的植民地化」に関する様々な記録にアクセスできるので、とても参考になりました。
──「脱植民地化」について、非常に重要な点を指摘していただきました。さらに視点を重ねたいと思います。あなたの芸術実践は、人種/民族と障害の交差点を探索しています。これらの領域は、どのように相互連関していますか。また近年盛んになっている「交差性(インターセクショナリティ)」に関する議論は、異なる領域の重なり合いだけでなく、その対立や衝突に着目するものです。人種/民族と障害という2領域のあいだの摩擦を、どのように見ていますか。
コーベット 歴史的に見て、障害者は多くの場面で社会に貢献する存在とは見なされてきませんでした。社会的重要性に関しても非常に低いと考えられています。また、障害者のなかにも分離と階層が存在し、それは障害の内容によって異なります。そうした事態は、黒人のコミュニティにも、米国以外の地域にも、とても深く根づいているのです。
(人種的平等を訴える)ブラック・ライブズ・マターの問題点は、それがもともと概して健常者のための運動であったということです。私も含めた黒人障害者が感じていることですが、私たちが運動の行われている場所に物理的にアクセスできない場合、自分たちの文化に貢献できず、他者と交流することができないなら、どのように自らの存在を証明すればいいのでしょうか。私たちは建物や部屋のなかにいることが多いため、いつも屋外で他者と一緒にいるわけではありません。しかし、どうすれば運動をよりアクセシブルにできるのかといった、アクセシビリティに関する議論は、ほとんどなされてきませんでした。
司法制度や監獄制度、警察制度の問題など、黒人の身体がいかに軽んじられ、虐待されているかに関する議論からも障害者の存在は排除されがちです。障害者は往々にして、人種的コミュニティの視覚的な一部とは見なされていないからです。
人間、動物、機械の境界を超えて
──あなたが述べられたことは、アンジェラ・デイヴィスやベル・フックスといったブラック・フェミニズムの先駆者たちが、第2波フェミニズムの運動に対して提示した批評的指摘を想起させます。彼女たちは、白人フェミニストが「私たち女性」と言うとき、例えば黒人女性や十分な教育を受ける機会に恵まれなかった女性の存在はそこに含まれていないことを批判しました。「私たち」という集合名詞が用いられるとき、誰が包摂され、誰が排除されているかに注意深くありたいと思っています。
では、最後の質問です。議論の射程を人間ならざるものへと拡張しましょう。あなたは、ドナ・J・ハラウェイの論考「サイボーグ宣言」(1985)に大きなインスピレーションを受けたと公言しています。実際、あなたの作品は人間・動物・サイボーグ(機械)のあいだの境界を撹乱します。今日こうした芸術実践が有する意義について、どのように考えますか。
コーベット 私はAI(人工知能)のデータパフォーマンスなど、非人間的と思われるものに関心があります。ただし、そうしたものは同時に、非常に人間的です。人間の心をモデルにしているからです。しかし、それらはコンピュータのように感情を持たず、ただ命令されたことをこなすだけです。では、非人間的とされるものとは何か。道徳の範疇にあるものなのか、道徳の欠如したものなのか。人間性や共感性の欠如なのか。たんに西洋の常識にすぎないのか。そうした無数の問いに関心があるのです。
私や私の作品にとって、仮に人間や人間の感情に焦点を当てたものであっても、視覚表象は人間ならざるものの現前であると言えます。それは私たちが当初、必ずしも人間表象として考えていなかったものを含むからです。そしてそれは、植民地主義やその視覚表象に通じる部分があります。
医療分野では、障害者や戦争帰還兵など、様々なかたちで身体に影響を受けている人たちを表現する用語がたくさんありますが、例えば、身体の延長線上には何があるのか。身体の一部とされる部分はどこまでを指すのでしょうか。人間的なもの、非人間的なもの、人工的なもの、身体の延長線上につくられたものを再定義する必要があると思います。というのも、非人間や人間について議論するとき、私たちは身体の完成形について考えますよね。そのうえで、車椅子や義肢装具のような機械的道具を使っています。人間にとって「完全な身体」とはどのような状態を表すのでしょうか。
また、人間以外の生物や有機体について思索を巡らすことは、こうした問いを考えるうえでも有用です。私たちは、地球上に存在するほかの生物の延長線上にあるとともに、地球自体の延長線上にもあるですから。
──では、人間と非人間との境界を再定義するテクノロジーの役割については、どうお考えですか。テクノロジーに関する思索は、あなたの芸術実践において、どのように文脈化されているのでしょうか。
コーベット テクノロジーは前提として誰もがアクセスできるものでなければなりませんが、現在はそうではありません。まず、その点には大いに改善の余地があります。
私が作品制作に使用する3Dモデリングは、AI技術によって大きく発展しています。そのような意味でのテクノロジーは、とても役に立っています。様々な感覚や手掛かりを駆使し、身体的な能力の差異はあっても、制作においてできることが技術によって飛躍的に増大します。つまり、テクノロジーを用いることは異なる言語を身に付けるようなものでもあります。それは作品を通じたコミュニケーションに柔軟性を持たせることができるだけでなく、その方法を変えることさえできるのです。