──今回の個展「キュリー夫人年表」で展示されている作品は、マリー・キュリー(キュリー夫人)や彼女をとりまく人々をテーマとした絵画が中心となっています。まずは、特定の人物をモチーフとする抽象画を、どのように制作されているのか聞かせてください。
この「誕生日と命日」シリーズは、自分でつくったカラーチャートをもとに、モチーフとする人物が生まれた日と亡くなった日の日付、曜日、天候を色に置き換えて構成したものです。外側の四角形が誕生日、中央の四角形は命日を示し、4つに区切られた領域のそれぞれが日付を表す4桁の数字、領域を囲む枠はその日の曜日にあたります。天候によって各色の色調が決まります。
曜日を色に置き換えるという発想は、タイに留学していたときの経験がもとになっています。タイでは各曜日に色が割り振られており、例えば月曜日は「現・タイ国王の誕生曜日 」とされていて、毎週月曜日は街中みんなが黄色の服を着るんです。日本では血液型を聞くように、タイでは生まれた曜日を尋ねられることもよくありました。
また、天候は、記憶に深く結びつくものなのではないかと思い、要素としました。ある出来事を思い出すときに「あの日は雨が降っていて寒かったな」ということがきっかけとなったりしますよね。
《MarieCurie-Sklodowska(Madame Curie)18671107-19340704》は、最下層に誕生日と命日を描いた上に、年代順に伝記から抽出した言葉を書いたり、彼女の人生で重要な出来事が起こった日付を先のルールに従って描いたりと、何層にも重ねています。まずは伝記を読みながら鍵となりそうな言葉を抽出してノートに書き出し、年表をつくってから制作しました。
──伝記を読んでキュリー夫人の人生をたどることから始まり、日付をピックアップしたり、言葉を書き留めたりと、絵画作品を描くまでに膨大なリサーチを経ているのですね。
そうですね。キュリー夫人の作品をつくろうと決めてから、2年くらいかかりました。とくに天気のデータ集めは、気象関係の仕事をしている弟と過去の気象データの復元を研究されている方からアドバイスをもらいながら、海外のデータベースを調べたり、気象庁の図書館で古い資料を探したりと、大変でした。ポーランドの地方のデータはあまり残っていなかったりして......。
ただ、早く描きたいという気持ちもありましたが、リサーチは楽しかった。キュリー夫人の次女であるエーヴ・キュリーが書いた伝記『キュリー夫人伝』(河野万里子訳、白水社)がとても面白かったし、調べるほどに彼女たちがリアルに感じられるようになっていくんです。
例えば、キュリー夫人の夫・ピエール・キュリーは1906年4月19日、パリの濡れた路面に足を滑らせて転倒したところに馬車が通りかかり轢かれて亡くなります。伝記には「相変わらず雨が降り続いて〜」というように天候についての記述があります。実際に気象データと見比べたところ、確かに当日、前日、前々日とまとまった降水量が観測されていることがわかり、パリの街の足元は大変悪かったのだろうな、と想像しました。
──今回、キュリー夫人を取り上げようと思った理由をお聞かせください。
女性の人生をテーマとしたいと思っていたこともあるのですが、キュリー夫人の肖像写真を見て、影のある表情が気になったことが大きなきっかけです。
例えばアインシュタインは、肖像画からも自他ともに認める「天才」の自信が感じられるけど......キュリー夫人も、大発見をして社会的に高く評価されていた人物なはずなのに、写真はとても暗い顔をしている。それが印象的で。
実際に伝記を読んでみても、ネガティブで自分に厳しい性格の人だと感じました。マリーはパリで勉強する姉ブローニャに仕送りをするために住込みの家庭教師を18歳から6年間します。そして姉・ブローニャがパリで医者になり、いよいよマリーはパリで勉強できるという姉妹の約束は果たされるのですが、マリーははじめ「次はあなたがフランスへ来て勉強する番です、パリへいらっしゃい」という姉の誘いに「私なんかばかだし、今もばかだし、...パリを夢見ていた望みはもう消えてしまったのです」とパリ行きを躊躇するのです(笑)。
──「誕生日と命日」シリーズは必然的に亡くなった人をモチーフにすることになりますよね。今はこの世に存在しない人物の生涯をたどるような制作プロセスは、その人の人生を絵の生成とともに「生き直す」ような行為とも言えそうです。制作中は、どのような感覚なのでしょうか。
同じ時間を共有して、育てていく感じです。作品と一心同体になる感覚があります。また、不思議と描く対象と自分自身がリンクするように感じることもあります。
例えばキュリー夫人は、11トンのピッチブレンド(閃ウラン鉱)を溶かして分離精製する作業を4年間続けて、1グラムの純粋ラジウム塩の精製に成功します。要素を積層させていきながら、ひとつの作品に結晶させる自分の制作過程も、彼女の実験のプロセスに重なって感じられる瞬間がありました。
また、キュリー夫人はラジウムを我が子のように愛していて、夫のピエールと「(生成されたラジウムが)きれいだったらいいね」と話したり、二人で光るラジウムをうっとりと眺めたりしていたそうです。私も、作品の色づかいは(システムによって決めるので)コントロールできないけど、完成した作品がきれいだったらいいな、と思いながら制作していました。
そうしたら、中心部の色彩を決める命日の曜日や天気が明るい色にあたるもので、不思議なことに中央の四角形の部分が光っているように見える仕上がりになって。「もしかしてこれはラジウムなんじゃないか!?」と思いましたね。今思うと、あのときは少しおかしくなっていたと思うんですけど(笑)。
──偶然とは思えない不思議な現象ですね。もともと、どのようなきっかけでカラーチャートを使う手法に行き着いたのでしょうか。
大学を卒業しても絵を描き続けたいと思っていたのですが、学校を卒業すると課題の締め切りなどもないので、作品を「いつ終わらせればいいか」わからなくなってしまったことがありました。
私は大学を卒業して以来、八王子のLuckyHappyStudioという共同アトリエで制作しています。周りには同じようにたくさんの共同アトリエがあったりして、交流も盛んです。そんななか「いいじゃん」と絵をみた人に言われたりすることがあって、私が日常の一部として描いてきたものを「いい」と思う人がいるんだな、と驚くことがあって、発表したい気持ちが高まっていました。
一方で、人に見せるからには作品に対する責任は私が負うものだろうし、「終わってないもの」をだれかに見せるというのは気持ち悪い。でも、「終わり」はたんなる感覚で定義できるものではないのではないかと思ったりして、作品を発表する意味について悩んでいました。
そんな頃、身近な人がうつ病と診断されました。どうすればその人の苦しみがわかるのだろうと考えて、病気のことを調べ始め、さまざまな人物の人生のストーリーに行き着きました。他人の気持ちは絶対にわからないけれど、あるものさしを設定して人生を絵にすることで、その人に寄り添うことはできるかもしれないと気づきました。そして、誕生日という始まりがあって、命日という終わりがある、ひとの人生という有限なものをモチーフとすることで、作品を完成させることに迷わなくなるとも思ったんです。
以前は派遣社員として働きながら制作していましたが、作品を発表できる機会も増え、いまは、就労時間が短くなるようにアルバイトに変えて制作をしています。制作だけできたらいいのですが、仕事をする経験や、そのなかで考えたことは作品が変化するきっかけにもなっていると感じます。時間の使い方やデータの抽出の仕方を学んだり、「メールが遅れる」ってどういうことなんだろう、空間がゆがんでいるのだろうか、なんて、学生時代には考えなかったようなことが気になったりして。
ただ、状況が変わっても、人の人生を描きたい気持ちは変わっていません。共同アトリエで一緒に制作をしている仲間には、言動が面白い人や天才肌の人も多いんです。でも、そういう才能は私にはないし、そもそも「自分」というものがそんなにないから「他人」を描きたいんです。
──絵画を制作するという行為に向かい合う中で生まれた手法だったのですね。これまでに俳優の渥美清、自転車レーサーのマルコ・パンターニ、写真家の星野道夫などをモチーフとしていますが、これから描きたい人はいますか?
そうですね、まだ考えているところで、オススメの人をいろいろな人に聞いたりしているのですが...。波瀾万丈な人生を送った人や犯罪者について調べたこともあったのですが、わざとらしくなってしまう気がして、作品にすることができませんでした。アーティストや数学者は面白いかもしれないですね。いまは、自分の関心に寄せて描く人物を選んでもいいのかなと思っています。
PROFILE
@m_curie11070704http://makikatayama.tumblr.com/