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INTERVIEW - 2019.9.26

虚実のあいだを彷徨う現代人の肖像、その詩学。シュテファン・バルケンホール インタビュー

ドイツ人彫刻家シュテファン・バルケンホールは、80年代のデビュー以降、人物や動物、建築などをモチーフに、1本の木から台座ごと掘り出す人体彫刻、その背景としての役割を担うようなレリーフなど、荒く削られた木やブロンズに着彩を施した彫刻作品を制作。ヨーロッパを中心に国際的に活躍してきた。日本国内においては、2005年、国立国際美術館と東京オペラシティアートギャラリーにおいて初個展「シュテファン・バルケンホール:木の彫刻とレリーフ」を開催し、大きな話題を呼んだ。今回、8年ぶり3度目となる小山登美夫ギャラリーでの個展(9月7日〜10月5日)のために来日した作家に話を聞いた。

聞き手・構成=島田浩太朗

シュテファン・バルケンホール。小山登美夫ギャラリーにて 撮影=吉次史成

具象とミニマルを融合し、虚実のあいだを彷徨う現代人の肖像をユーモラスに描く

──まずはじめに、あなたの作品の一貫したコンセプトでもある「ミスター・エヴリマン」について、お話をうかがいたいと思います。 今回の個展の出品作品にも見られるこのコンセプトは“白いワイシャツと黒っぽいズボン”という極めて平均的な男性像の基本型バリエーションを提示したとも言えますが、当初は何を意図していたのでしょうか。

 当時、私は人体彫刻の再出発/再発明のようなものを目指していました。私たちはイメージや情報で覆い尽くされた都市で暮らし、つねに広告や動画、映画に囲まれていますが、そうした風景や人物、そして物語のなかに、時代を象徴するような“モニュメント”を見出すことができます。私は、鑑賞者がその作品を見たときにそのなかに自分自身を発見することのできる、ある種の空虚さや空間を探し求めていたのです。それは“木製の鏡”と“プロジェクション・スクリーン”のあいだに存在する“混合物”のようなもので、鑑賞者が作品を見たときに心を奪われたり、心象に変化が生まれたりします。

 例えば、ローマで巨大な木の彫刻を展示した際、ある女性が「一日の始まりはとても酷いものだったわ」と私に話しかけてきました。そのとき、彼女が何に対して腹を立てていたのかわかりませんが、続けて「でも、この展示室に来て、気分が良くなったわ」という言葉をもらしました。このように、彫刻はある種のセラピー的な効果を持つこともあります。意図されたものではありませんが、痛みを取り除いてくれることもあるのです。

個展会場風景より Photo by Kenji Takahashi (c)Stephan Balkenhol

──あなたの人体彫刻は、手ぶらで、ある特定の人物や物語を想起させるような説明的・特徴的な描写が極力削ぎ落とされていて、“誰でもなく誰でもあり得る”ような、感情表現を宙吊りにした、無口で謎めいたままの人物像を提示しています。それらの作品群は、急速な情報化とグローバリゼーションによる世界の平均化のただなかで、虚構と現実のあいだを彷徨う、現代に生きる人々の肖像のようにも感じられます。そういった“肖像”としての人体彫刻へのこだわりについて、お話いただけますか。それによって何を提示したいのでしょうか?

 私は主に人体彫刻を制作していますが、もっとも重要なことは“あなた自身の存在をそこに反映させる”ことです。“あなたがどこから来て、どこへ行くのか、なぜここにいるのか、どのようにして生まれたのか、死後に何が起きるのか”ということについて。例えば、人は動物とは異なり、自分自身の存在を示し、その理由について考え、あらゆる事を問いかけます。私はそれらの問いに対して答えを与える立場ではありません。むしろ、そうした問いから彫刻を制作しています。

──若い頃には、エジプト、ギリシアやローマの古典的な彫刻に強く惹かれたそうですね。その理由について詳しく教えていただけますか。

 1980年代の学生時代から大学卒業直後の頃にかけて、幾度も旅をしました。エジプトやギリシャ、イタリアだけでなく、イギリス、フランス、スペイン、デンマークなどの有名な美術館にも訪れましたが、とりわけエジプトの彫刻を見たときに、とても同時代的であると感じました。制作されてから2000〜3000年は経過していますが、例えば、“隣のレストランで彼らのような人々と出会うことがあるかもしれない”と感じさせてくれるほどに現実感があります。実際、私たちがそれらの彫像のあいだを歩くとき、時代を横断するように感じるはずです。

 これまで人類が抱いてきた疑問は、あらゆる時代を超えて同じようなものです。もちろん、もはや奴隷制度はありませんし、テクノロジーやメディア、車などによって、ライフスタイルに大きな変化がありましたが、服を着て、食事をして、子孫を残して……人々の基本的な暮らしは、ほとんど変わっていません。

個展会場風景より、手前から《Mann Schwarz-weiß(zweiteilg)/白黒の男》(2018)、
《Mann vor Hochhäusern/高層住宅の前の男》(2017)
Photo by Kenji Takahashi (c)Stephan Balkenhol

──今回の出品作品の中にも含まれていますが、あなたの人体彫刻には必ず“台座”があります。その意味について教えていただけますか。

 台座に人体彫刻を載せることよって、何かヒエラルキー的な意味を与えることを意図しているわけではありません。人体彫刻をより重要なものとして見せたいのではなく、むしろ、とりわけ小彫刻に関しては “作品を見るときに空間の中でうまく機能する高さに配置する”ためです。あるいは、それは具象的な作品との関係性をつくりだす抽象的なボリュームのようなものです。また人体彫刻と台座との間に異なる関係性をつくりだすために、他とはまったく違ったように台座を塗装することもあります。

個展会場風景より Photo by Kenji Takahashi (c)Stephan Balkenhol

──あなたの作品には、日常の中で、ふとした瞬間に訪れる“詩的・幻想的・超現実的な時間と空間との遭遇”のようなものを感じますが、そうした作品の特質とあなたが提示する“観客の参加”のあいだには、どのような関係性があると思いますか?

 彫刻はきわめて重要なもので、たしかに美に関わるものでもありますが、私たちは“開かれた空間”に生きています。観客は、自分自身のアイデアによって、あるいは彼らが持っている自由と知覚によって、彫刻を満たそうとします。ただし、その自由というのは、自らの力で思考し、理解し、想像することによって初めて機能するものです。そうした行為の繰り返しによって、彫刻は観客自身のものになるのです。

シュテファン・バルケンホール 撮影=吉次史成

──そのいっぽうで、伝統的な具象表現と近現代的な抽象/ミニマル/コンセプチュアルの融合も見ることができます。同時代的なものを追求すると同時に伝統や慣習をアップデートする、あるいは再発明/再発見するということについて、もう少し詳しくお話いただけますか。

 彫刻の頭に着目したとき、古代ギリシャ・ローマの彫刻は、自然主義的でとても理想的なものであるように感じられますが、その後のゴシックの時代には、より抽象的なものへと変貌していくことになります。この“自然主義から離れる”ということが、私にとってとても重要なことです。というのも、すべては“現実”に関するものですが、それぞれの時代に“異なる現実”を見てきたとも言えるからです。最近はかなり物質主義的ですが、かつては“より天国に近いもの”、あるいは“思考”や“宗教的な現実”であったり、他の時代には“抽象的”あるいは“偶像破壊的”であったりしたわけですから。

個展会場風景より、《Frau(klassisch)/赤いドレスの女》(2019) Photo by Kenji Takahashi (c)Stephan Balkenhol

──作品の表面に見られるノミによる堀跡は、絵画における“筆触”のような繊細さを感じさせる“絵画的身振り”によって特徴づけられています。“木”は前史時代から人類との親密な関係性を築いてきた素材のひとつですが、主なメディウムとして“木”を選択した理由を教えていただけますか。

 あらゆる素材は、素材と向き合うことを要求します。石であればより長く時間を要しますが、粘土や石膏であればかなり早く制作できます。木はその中間です。私にとっては、木がとても相性が良い素材でした。手に入れるのが容易で、それほど重くなく、塗装もできますし、紙のようにとても自由に扱うことができます。制作のために大掛かりな補助の必要はなく、すべてを自分ひとりでこなすことができます。

 また私は本能的に作業を終わらせたくないので、“開放性”はとても重要です。例えば、一通り掘り終えた後、さらに表面を磨きたくなる場合もあります。木という素材はつねに開かれた状態にあって、何度でも制作を再開し、続けることができます。そうしたプロセスを通して、表面をより生き生きしたものにしていきます。私にとっては、木の美しさではなく、その姿やプロポーションが重要です。また木の角材は、手を入れる前から、あるいは下絵を描いた状態でさえ、それ自体を“彫刻”あるいは“彫刻的なもの”として見ることができます。例えば、スタジオにコレクターがやってきて、まだ作業中の作品を見て「これを購入したい」と言われることもありますが、私は「いいえ、まだ終わってません」と答えざるを得ません。 つねに“いつ作業を終えるのか”という問いとともにいます。

個展会場風景より、写真奥が《Mann, schwarze Hose, weißes Hemd/黒ズボンに白シャツの男》(2019) Photo by Kenji Takahashi (c)Stephan Balkenhol

──今回の展示にも見受けられますが、あなたの作品は、基本的にドローイング(平面)、レリーフ(半立体)、人体彫刻(立体)によって構成されています。ドローイングというのは、ある意味で“未完成なもの”でもありますし、あなたのレリーフと彫刻は“木の上のドローイング”のようにも思えます。2次元と3次元を行き来すること、あるいはそのあいだの関係性について、どのように考えていますか。

 3次元は2次元よりも、より現実に近いものです。もちろん、両方とも現実を感じさせるものではありますが、前者にはより物理的なリアリティがあります。かつてミケランジェロが指摘したように、彫刻と絵画の関係性は “ものそれ自体とその影のあいだの関係性”に似ています。レリーフは、よりフィクショナルな方法によって3次元的な彫刻をつくりだします。例えば、コインに描かれているシンボリックな図像イメージは、実際はごく僅かな凹凸があるだけですが、私たちはそのなかに空間性を見いだすことができます。またレリーフは、彫刻の背景に置いて、両者の関係性によって作品世界をつくりだすこともあります。ドローイングは、スケッチみたいなもので、考えるための手段であると同時に、自分のアイデアを可視化するためのひとつの方法でもあります。そして、ドローイングは“彫刻のための下絵のようなもの”で、展示するためのものではありませんが、見るに値する、とても興味深いものです。

──学生時代には彫刻だけでなく写真の勉強もされたそうですが、写真と彫刻の関係性、写真からの影響について、教えていただけますか。

 写真と彫刻は、基本的に同じようなものです。19歳か20歳の頃にカメラを初めて手にしたのですが、写真を撮ることは“観察すること”を意味しました。昔は、いつもカメラを持ち歩いて色々なものを撮っていましたが、いまはドローイングが写真の代わりです。歩きまわりながら、何かをスケッチしたり、写真を撮ったりしながら、周囲の世界を観察することが、やがて彫刻になったり、芸術的なプロセスの一部になっていきます。近年は彫刻がメインですが、写真からの影響もあると思います。実際、最近、写真を用いた作品も制作していて、木のパネルに写真をプリントして、その一部を掘った作品があります。

個展会場風景より、《Mann mit schwarzem Shirt/黒いシャツの男》(2019) Photo by Kenji Takahashi (c)Stephan Balkenhol

──最後に、あなたの活動の原点にあるミュンスター彫刻プロジェクトについて、お話をおうかがいしたいと思います。1987年、実際にこのプロジェクトに参加された際に、公共性や象徴性など、パブリック・アートについて考える良い機会になったのではないかと思いますが、当時の経験とそこから学んだことについて教えていただけますか。

 ミュンスター彫刻プロジェクトは、まさに“野生的なアートシーンの発見”でした。当時、そこで展開されていたプロジェクトが持っていた自由な想像力や創造性に強くインスパイアされました。実際、私自身も87年の参加時に初めて、自分の彫刻のための場所を見つけたような気がします。その場所に彫刻を置くことの意味。そして、そこに彫刻が置かれることによって、周辺環境を含めた全体的な状況を変えてしまうこと、あるいは逆に周囲の状況によってその彫刻の意味が変わってしまうことについて学びました。それは場所と彫刻の結婚のようなもので、自己と他者が混じり合う場所でもあります。あるときはそこに彫刻があることが普通に思えたとしても、次の瞬間にはイライラさせるものに豹変するかもしれません。

 しかしながら、そのとき初めて、そこでいったい何が起きているのかについて、私たちは考え始めます。こうしたある種のショックのような経験から生まれる苛立ちは、必要不可欠なものです。それは重たいものではなく軽いものですが、とても強い力を持っていると思います。

──本日は、貴重なお時間をいただきましてありがとうございました。今後のさらなるご活躍を期待しています。

 こちらこそ、ありがとうございました。ではまた。

シュテファン・バルケンホール 撮影=吉次史成