「ナラティブの修復」展(せんだいメディアテーク/2021年11月3日〜1月9日)
東日本大震災後、せんだいメディアテークは新たな役割を模索するなかで、アーティストと市民による「語りの場」のプラットホームに育っていった。本展はこの10年間の取り組みの集大成と言えるだろう。
多くの作品がインスタレーションで構成されていた。震災をきっかけに陸前高田市に移住した小森はるか・瀬尾夏美が、多くの人への聞き取りの経験から制作した《11歳だったわたしは》。震災後に故郷の陸前高田に戻り地域の祭りの復興や記録を行ってきた佐藤徳政の『ダイアモンドフロッグ』と自身のブランド展開商品。流行歌を通じて名もなきの人の輪郭を探る磯崎未菜の《Sleeping Voice Network》。仙台市内の引き揚げ者住宅の立退きに着目した佐々瞬の《追廻住宅記録/最後の家(仮)》。仙台に住んだ前衛芸術家・糸井貫二(ダダカン)の活動と資料を保存しようとする「ダダカン連」の展示などだ。
展覧会を見終わった後、タイトルの「修復」とは、陶磁器の「金継ぎ」のような営為だと受け止めた。傷は消えないけれど、傷跡を語ることで自分自身が保てること。共通体験として痛みを抱える人々に、不謹慎かもしれないがなぜだが惹かれること。他者の声を聞くことで生まれる名前が付けられない感情を、当事者・非当事者を超えどれも否定せずに提示する展覧会だった。
「東北へのまなざし 1930−1945」展(岩手県立美術館、福島県立美術館、東京ステーションギャラリー/4月9日〜5月15日・6月4日〜7月10日・7月23日〜9月25日)
鉄道網が発達し、都市と地方の移動が容易になった昭和初期において「東北とモダニズム」はいかに出会ったのか。東北を訪れたブルーノ・タウトから始まり、東北の手仕事に「美」を探ろうとした柳宗悦、郷土玩具の蒐集家、「雪調」(旧農林省管轄・積雪地方農村経済研究所)とシャルロット・ペリアン、青森出身の今和次郎・純三兄弟、福島出身の吉井忠、おのおのが向けた「眼」と実践を6章構成で探る展覧会だった。
豊富で魅力的な作品・工芸品・資料によって、産業振興や蒐集活動、生活改善、山村報告など、彼らと東北との関わりが立体的に見えた。まなざしを向けるのは「移動できる」という点でもモダニズムの恩恵を受けられる人で、本展では彼らの実践が現地に与えた影響の限界も指摘している。
終盤の今兄弟、吉井の章になるとまなざしの解像度が上がり、東北の地に住む人々の生活の実相が見えてくる。展覧会を通じて鑑賞者の眼と想像力が鍛えられていく構成も秀逸だった。
「蔦谷楽 ワープドライブ WARP DRIVE」展(原爆の図 丸木美術館/7月23日〜10月2日)
ニューヨークが拠点の蔦谷楽は、日本初個展となる本展で日米での綿密なリサーチにもとづいてイメージを膨らませた寓話的なドローイング、戦時中の日系人強制収容所と原爆投下直後の広島・長崎のバラックを接合させた建家、映像作品2本等を展開した。
56分に及ぶ《ENOLA’S HEAD》は、未来人が滅亡した文明を探るという設定で、マンハッタン計画から原爆投下、冷戦期、現代までの核の歴史を、惑星を巡るように紡いでいく。原子力の軍事・産業構造を推進した者、犠牲になった者が、伎楽面から着想を得た動物、虫等のマスクを被って登場。これにより国・人種間を超えた構造的問題であることを伝え、また古から伝わる壮大な叙事詩や仮面劇のようで見応えがあった。
ウラン採掘で被曝したアメリカ先住民の喪失と抗議について、筆者は本作を通じて初めて知った。丸木美術館で常設展示される《原爆の図》も、広島の日本人被爆者から始まり、在日コリアン、アメリカ人捕虜の犠牲者など描く対象を広げ、丸木夫妻が複眼的なシリーズに育てた。日本からアメリカに移住した蔦谷の作品が同館で展示されたことは、「唯一の戦争被爆国」という立場を超え、核をめぐる終わらない悲劇と声を上げつづける人々の存在を浮き彫りにする点でも意義深かった。