政権のダブルスタンダード?
2020年9月に菅政権が発足して以降、日本政府に関連する公的機関において、そのトップやメンバーの任命に関する問題が続発している。
ひとつは、菅義偉首相が内閣発足と同月に、政策提言を行う国の特別機関「日本学術会議」が推薦した会員候補のうち一部を任命しなかったという、いわゆる「日本学術会議会員の任命問題」である。この件が表面化した後、11月の参院予算委員会にて蓮舫氏から「(任命は)99人で、6人を外したという相談があり、『それでいい』と判断したのか」と問われた際に、菅首相は「その通りだ」(*1)と述べている。
ちなみに、日本学術会議は同会員の選考を2005年からは次のような方法で行っている。前提として、会員(及び連携会員。以下同じ)は6年で3年ごとに半数が改選されるほか、定年(70歳)がある。そこで、3年ごとに新しい会員を選考することになる。まず、会員が「新会員」を推薦する。そして、日本学術会議に選考委員会が設置される。選考委員会は、会員からの推薦名簿を考慮して、「新会員」を選考する(*2)。このようにして選考された名簿、すなわち日本学術会議からの推薦に基づいて、内閣総理大臣が「新会員」を任命するのである。以上の経緯から理解できるのは、次の事項である。すなわち、もともとは6名を含んだ105名の名簿が作成され、その後、菅首相は「6名を外した99名の名簿」を決裁した。このことは、「6名を外した99名の名簿」を誰かが作成したということを意味する。ここで、この「6人を外した99名の名簿」を誰が作成したのか、という疑問が生じる。これはとても興味深い問いであるが、この問題をただちに深堀するのはいったんお預けにして、後ほど検討することにしたい。
さて、もうひとつの任命問題は、2021年2月、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(当時)が女性蔑視と受け止められかねない発言をしたのちに、その発言の責任を取り、辞任した件である。この事件において当初、森氏は自身の辞任を否定していた。その時点で、菅首相は衆院予算委員会にて、森会長が続投すべきか辞めるべきかに関しては「政府と独立した組織委員会で決めるべきこと」(*3)と答弁していた。また、「私自身が独立した組織に人事への口出しをすることはすべきでない」(*4)とも発言しており、「あくまで進退問題については組織委員会に任せるとの考えを強調した」(*5)とのことである。
なお、あらかじめ申し上げておくと、本稿は「日本学術会議会員の任命問題」に関わる「学問の自由」を論じるものではない。また、森氏の発言を元にして日本社会のジェンダー問題を糾弾するものでもない。では何を論じたいのかというと、上述した2つの案件にて、政府に関連する組織人事に関して、菅首相の判断が真逆になっていたように見えた現象についてである。すなわち、日本学術会議会員の人事に関しては菅首相が最終的に「任命を拒否」したのに対して、森・前会長の去就に関して菅首相は「口出しすべきでない」と発言していたのである。
この2つの件における真逆な人事判断に関しては、「ご都合主義」「ダブルスタンダード」(*6)、「対照的な対応」「整合性の取れない対応」(*7)といった批判的な報道がなされている。しかし、筆者はこの2つの件で「ダブルスタンダード」はなく、じつは一貫した対応であったと考えている。さらに言えば、もうひとつ別の、アートにかかわる事件においても、じつは政権の対応は一貫していたと考えている。ここで言う「もうひとつ別の、アートにかかわる事件」とは、「あいちトリエンナーレ2019」に対する文化庁の補助金交付の問題である。
「あいちトリエンナーレ2019」に対する文化庁の補助金交付の問題
「あいちトリエンナーレ2019」(*8)における国際現代美術展開催事業については,文化庁の「文化資源活用推進事業」の補助金が申請されており、外部有識者による審査会を経て、文化庁より愛知県に採択通知が発送されていた。
その後、8月2日に「あいちトリエンナーレ2019」が開幕し、その展示内容が明らかとなった時点で、柴山昌彦文部科学大臣(当時)は、2019年8月2日に「展覧会の具体的な内容が判明し、企画内容や本事業の目的等と照らし合わせて、確認すべき点が見受けられることから、補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認した上で、適切に対応していきたい」(*9)と発言した。また、菅義偉官房長官(当時)も、同日、「審査時点では具体的な展示内容の記載はなかった」及び「補助金決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」(*10)と発言している。
その後、いったん閉鎖された「表現の不自由展・その後」をなんとか再開させようと、多くの関係者(愛知県、あいちトリエンナーレのキュレーター、参加アーティスト、検証委員会等)が奔走していた最中、2019年9月26日に文化庁は、あいちトリエンナーレに対する補助金の取扱いについて、「全額不交付」とする報道発表を行った。その理由を記したテキスト全文をやや長くなるが、以下に引用したい。
補助金適正化法第6条等に基づき,全額不交付とする。 【理由】 補助金申請者である愛知県は,展覧会の開催に当たり,来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上,補助金交付申請書を提出し,その後の審査段階においても,文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しませんでした。 これにより,審査の視点において重要な点である,[1]実現可能な内容になっているか,[2]事業の継続が見込まれるか,の2点において,文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。 かかる行為は,補助事業の申請手続において,不適当な行為であったと評価しました。 また,「文化資源活用推進事業」では,申請された事業は事業全体として審査するものであり,さらに,当該事業については,申請金額も同事業全体として不可分一体な申請がなされています。 これらを総合的に判断し,補助金適正化法第6条等により補助金は全額不交付とします。 (出所)文化庁(2019年9月26日)「あいちトリエンナーレに対する補助金の取扱いについて」[ (*11)
年が変わり2020年3月19日、愛知県は「補助金の申請を行った令和元年5月30日よりも前の段階から、来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような事態への懸念が想定されたにもかかわらず、これを申告しなかったことは遺憾であり、今後は、これまで以上に、連絡を密にする」と意見書を文化庁に提出した。そして、ほぼ同時に、2019年4月25日付けの交付申請書の申請額から展示会場の安全や事業の円滑な運営にかかる懸念に関連する経費等を減額することを申請した。
これに対して文化庁は、「愛知県が前記のとおり遺憾の意を示した上で今後の改善を表明したこと,展示会場の安全や事業の円滑な運営にかかる懸念に関連する経費等の減額を内容とする変更申請がなされたこと等を踏まえて判断し,当該事業については,愛知県から変更申請のあった金額(6,661万9千円)について,交付決定を行う」(*12)こととした。
以上が、あいちトリエンナーレ2019に対する文化庁の補助金交付の問題に関する一連の事実関係である。
あいちトリエンナーレ2019と日本学術会議との接点
上記のような経緯と決定に対しては、「灰色決着」「議論に封」(*13)等の批判もあるが、本稿ではその問題には触れない。では何を論じたいかと言うと、冒頭で取り上げた「日本学術会議の任命」問題と上述した「あいちトリエンナーレの補助金交付」問題との接点についてである。筆者は、「日本学術会議の任命」問題も、「あいちトリエンナーレ2019の補助金」問題も、同じ基準のもとに判断されていたのだと推測している。
では、これらの事例に共通する「隠された(排除の)ルール」とは何であろうか。おそらく、この「隠されたルール」は「日本の論点」と結びついている。換言すると、広義の日本の安全保障に関する事項が、政府(官邸)としてのセンサーになっているのではないか、という仮説である。具体的には、(日米)安全保障、在日米軍基地、靖国神社、天皇制、戦争責任、憲法改正、自衛隊、そして原子力発電等の事項である。さらに言えば、日本が独自に判断することができず、主に米国との関係の中で配慮しなければならない問題が、「隠されたルール」となっていると考えてみると、より合点がいくのではないか。
実際のところ、日本学術会議の会員としての任命を拒否された6人の大学教授は、全員が安全保障関連法や特定秘密保護法などで政府の方針に異論を示してきた人物たちであるという(*14)。
また、あいちトリエンナーレ2019においては、主に2つの作品が「電凸」による攻撃の対象となった。ひとつは、大浦信行の《遠近を抱えて PartII》である。ちなみに、同作品は何故か「関連資料」という微妙な位置づけであいちトリエンナーレ2019に出展されていた。同作品のなかで、昭和天皇の肖像写真を燃やし、その灰を靴で踏みつけるという映像表現があり、それが一部の鑑賞者等に大きな動揺をもたらした。もうひとつは、キム・ウンソン&キム・ソギョンによる《平和の少女像》である。同作品は、ソウルの日本大使館前の像など政治プロパガンダに使われた事実があるにもかかわらず、ここで出展する意味等について十分な説明がないままに展示されたことにより、理解不足による感情的な批判や政治信条に基づく抗議等を受けた。なお、上述した仮説に基づくならば、もしも、《遠近を抱えて PartII》が「関連資料」として出展されずに、《平和の少女像》だけが問題視されたのだとしたら、文化庁の補助金は全額不交付という決定には至らなかったのかもしれない。
さらに言えば、今般の「日本学術会議の任命拒否問題」は、たまたま表面化した氷山の一角にしかすぎないと推測される。たとえば、叙勲(旭日章及び瑞宝章)、文化勲章及び文化功労者、国民栄誉賞、国立研究機関・独立行政法人等の長、大型助成金、等の推薦及び任命、審査においても、同様の事態がすでに生じているものと推測される。
これらの審査にあたっては、有識者による委員会がそれぞれ組成され、各委員会による評価及び選考の結果が政府に提出されている。本来であれば、その原案の通りに政府で決定されるはずであるが、前述した「隠されたルール」に基づいた選別や排除が行われているのではないだろうか。その結果、有識者の委員会が推薦した候補が拒否(除外)されるという事例が、既にいくつも生じているものと推測される。
隠されたルール
いっぽうで、前述した通り、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が女性蔑視と受け止められかねない発言をしたことが進退問題に発展したが、これに対して、政権は当初関与しようとはしなかった。この事実をどのように解釈すれば良いのであろうか。これはじつはシンプルなことであり、男女平等や女性蔑視は、現在の政権としては関与する必要のない、非本質的なマターであるというメッセージなのだと理解できる。
ここで本稿の冒頭に立ち返ってみたい。「日本学術会議会員の任命問題」「森・前会長の去就に関する(当初の)不関与」、そして「あいちトリエンナーレ2019に対する文化庁の補助金交付の問題」、これら3つの件を通じて「ダブルスタンダード」はなく、じつは一貫した対応であったと筆者が考えていると記したのは、上記の通り、「隠されたルール」の運用において一貫しているという意味なのである。
さて、ここでひとつ興味深い研究結果を紹介したい。ある都市近郊農村の町内会長を対象としたアンケート調査によると、「規約明文化の割合」及び「女性の役員がいる割合」のいずれも、都市内町会(市街化区域内にあり、農家無しの町内会)のほうが、農村町内会(市街化区域外にあり、農家が半数以上の町内会)よりも高いという結果であった。換言すると、男性中心で運営されており、規約自体はあるものの明文化されていないことが、農村町内会の特徴なのである。同研究では、こうした農村町内会の特徴の背景について、「農家は属性として共通性が高く、ルールを明文化しなくても不文律として遵守される保証が得やすい」 (前川・林・高橋2004:874)と分析している。しかし、この特徴は、ほとんど男性が中心となって、「隠されたルール」で様々な決定がなされていくという、現在の日本社会の特徴そのものではないのか。
ちなみに、スポーツの分野にも「隠されたルール」は存在する。公式のルールブックには記載されていないが、長年の慣習として遵守することになっている、いわゆる「暗黙のルール(unwritten rules)」と呼ばれるものである。たとえば、野球において、大量の点差(概ね5点以上)でリードしているチームは盗塁やバントをしてはいけない、といったルールである。これらの「暗黙のルール」は、基本的にスポーツ選手たちが相手のチームに敬意を払い、その名誉や尊厳を守るために設定されている。これに対して、現在の日本で運用されている「隠されたルール」は、むしろそれによって関わる人々の人間性が阻害されているのではないか。
このように「隠されたルール」が決定づけられており、それが粛々と運用されていることがもしも事実であるとしたら、読者はどう受け止めるであろうか。「重要な論点やルールを隠ぺいするとは、じつにけしからんことだ」と憤慨するであろうか。しかし、「隠されている」ことだけでなく、真の問題はさらに別に所在する。真の問題点は、まさに「ルール」が隠されていることに関係する。すなわち、仮にこの「ルール」に問題があったとしても、「隠されている」ために、修整・変更することはできないのである。そもそも、「隠されている」ので、この「ルール」に関して議論することすらできない。あいちトリエンナーレ2019においても、あれほどの騒動になりながら、天皇制のあり方についてあらためて議論が行われるという状況にはならなかった。そして、「表現の自由」という、それ自体はたしかに重要ではあるが、具体性を欠くメタレベルの論点に議論の中心がそれていったのである。
ところで、「表現の自由」の思想的背景として、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(1859)があげられる。同書のなかで、ミルは「思想と言論の自由」に関してわざわざ一つの章を割いて論じている。そこでミルは、「どんな学説であろうと、それが不道徳とみなされる学説であろうとも、それを倫理的な信念の問題として公表・議論できる完全な自由が存在しなければならない」(ミル1859=2012:43)としている。そして、「討論の場がつねに開かれていれば、よりすぐれた真理がそこに存在するとき、そして、われわれの知性にそれを受け入れる余裕があるとき、それはきっと発見されるだろう」(ミル1859=2012:56)とも語っている。
これらの言説から理解できる通り、ミルは、真理の発見のために「思想と言論の自由」が不可欠と考えたのである。そして、「公表・議論」を通じて真理を発見していくことで、人間の社会が進化すると考えたのである。これに対して、ルールを隠ぺいしてしまうことは、議論の封殺であり、ひいては社会の進化の拒否にもつながる。
「思考しないこと」と「陳腐な悪」との相互依存関係
そして、この件は、「ある書物」を筆者に想起させた。その書物からいくつかのテキストを以下に引用してみたい。
▶<上からの命令>という事実は人間の良心の正常な働きをいちじるしく阻害する(P.404) ▶「事務屋以外の何ものでもなく」(中略)「規則によって、命令によって」決定されている(P.80) ▶自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ(P.395) ▶俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった(P.395) ▶この件に関する一切の通信には厳重な<用語規定>が課せられ(中略)不適当な用語が出てくる書類が見つかることはめったにない(P.119)
さて、これらのテキストは何からの引用だと思われるであろうか。もしかしたら、森友学園に対する公有地払い下げの件での財務省の文書改竄に関するテキストだと思った読者もいるかもしれない。しかし、じつはそうではない。これらはいまから60年近く前に執筆されたテキストなのである。
これらのテキストは、ドイツ出身の思想家ハンナ・アーレントによる『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(1963)からの引用である。同書は、アドルフ・アイヒマンの裁判記録で、1963年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』に連載された。アイヒマンは、第二次世界大戦中の「ユダヤ人問題の最終的解決」 (ホロコースト) において指揮的役割を担ったナチスの官僚である。数百万人におよぶユダヤ人を強制収容所に移送し、無残な死に至らしめた。こうしたことからアイヒマンは当時、悪魔のようなナチス高官と思われていた。しかし、アーレントは裁判の傍聴を通じて、このアイヒマンがじつは自らの職務を果たすことに忠実であった、いち官僚にしか過ぎないことを喝破したのである。
ちなみに同書の副題は『悪の陳腐さについての報告』となっている。この「陳腐さ」という用語については、少々解説が必要であろう。アイヒマンに関して、アーレントは「彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと──これは愚かさとは決して同じではない──、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ」(アーレント1963=2017:395)と批評している。すなわち、アイヒマンはけっして愚かではなく、むしろ事務職としては有能な人物であった。そして有能であったがゆえに、大量のユダヤ人を“効率的”に「最終的解決」に至らしめることができたのである。しかし、アイヒマンは自らの頭では「まったく思考していない」のであった。具体的には、いま自分が粛々と遂行していることが、人道的にはどのような意味を持つのかといったことに、アイヒマンの思考や想像力が働くことはなかった。
アーレントは、この「思考していないこと」と「犯罪=悪」との関係について、「思考していないことと悪とのこの奇妙な相互依存関係」(アーレント1963=2017:396)とも述べている。このように「まったく思考していない」人物が、「まったく思考していない」が故に、結果として大きな犯罪行為をなす、という状況全般が、反語的な意味で「陳腐」であり、「こっけい」であるとアーレントは指摘しているのである。
この「思考していないこと」は、「無思想性」とも読み取ることができる。かつての陸軍軍人で、満州事変を起こした首謀者のひとりである石原莞爾は、東京裁判のときに、外人記者から「あなたは東條と意見が合わなかったそうですね」と訊かれて、「私には多少の意見もあり、思想もある。東条には思想もなければ、意見もない。意見も思想もない東条との間に、どうして意見の対立があり得よう。それは愚問である」と答えたとされる(伊藤1993:17)。
この問答で明らかなように、石原は「思想」と「無思想=考えないこと」とは、「対立しない」と考えていた。もっとも、そういう考え方が通用したのは、もしかしたら、近代社会までのことかもしれない。むしろ現代社会においては、「思想」と「無思想=考えないこと」が対立する時代なのかもしれない。
近い将来に、ほとんどの情報がデジタル化され、AIの活用によって現在よりもはるかに効率的に検索できるようになることが予想される。同時にその場合、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』で描かれたような、完璧な検閲社会が到来する懸念がある。例えば、政府が「好ましくない」と指定したキーワードに関しては、そもそも検索できないか、本来は適切に表示されるはずの情報が劣後してしまい、実質的に提示されないというアルゴリズムが実装されるかもしれない。もちろん、このような完璧な検閲を担うAIには、悪意も恣意性もない。そして、文字通り、何の思想もない。そして、そのアルゴリズムは国民に隠されている。
こうした状況を想像してみると、「支配と行政の基準となる法律を公表しないことが(中略)、ドイツにおける全体主義支配の本質的なメルクマールの一つとなった」(アーレント1963=2017:179-180)というアーレントの言葉は、現在とても重く響く。
官僚化する政治と社会
じつはアーレントのこのような考えは、『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』よりさらに10年前の彼女の著作においても確認することができる。『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(1953)においてアーレントは、「正真正銘の官僚制」では、「多くの人々が理由説明を要求するかもしれないが、誰もそれを与えられない」(アーレント1953=2002:58)と述べている。そして、「悪意も恣意性もない一般的意思の任意の適用が現れる」(ibid.)ことになるのである。これらはまさに、あいちトリエンナーレの補助金不交付や日本学術会議の任命拒否において生じた事態を70年近く前に予言していたかのような描写である。
いっぽう、アメリカの社会学者マートンは、官僚制の欠陥を総称して、「官僚制の逆機能」と名付けた(マートン1957=1961:181-183)。そして、「規律とは状況の如何を問わず、規則に服することだと簡単に解釈され、特定の目的達成のために定められた方策だとはみなされなくなり、ビューロクラシーのなかにある人々の生活設計において、規律は直接的な価値となってくる」(マートン1957=1961:183)と指摘した。このマートンの指摘は、ヒトラー及びナチス上層部からの指示に粛々と、かつ効率的に勤しんだ、官僚としてのアイヒマンの姿と二重写しになる。
さて、近時の日本において一連の問題が生じているのは、政権が「一強」と呼ばれるように強くなったことが原因かというと、じつはそうではなく、政治が「脱政治化」し、「官僚化」したことがより本質的な問題だという指摘がある。
政治学者の野口雅弘は、『忖度と官僚制の政治学』(2018)のなかで、「官僚側の論理に、政治家の方が寄ってきた」(野口2018:241)ため、その結果、「官僚と政治家の果たすべき「説明責任」の差異がしだいに不分明になっている」(ibid.)と指摘している。そして、「こうした政治の「行政」化は「忖度」の広がりと結びつく」(野口2018:243)のである。さらに、「官邸内でも「忖度」の論理がはびこれば、それらは相互に絡み合いながら、脱政治化を深めていく」(野口2018:245)ことになる。そして、政治の脱政治化という「負のスパイラル」が構築されていると分析している。すなわち、政治による官僚支配が問題なのではなく、政治そのものの「官僚化」が問題なのである。もはやこのような状況においては、何か問題が生じたとしても、責任の所在をどこにも見出すことはできない。
しかし、本稿は官僚制を批判することが趣旨ではない。また、念のため確認しておくと、ここで言う「官僚制」とは、霞が関に代表される具体的な官僚組織のことを指しているのではない。そうではなく、本稿で言う「官僚制」とは、民間企業も含めた、現代的な統治機構全般を意味しているのである。
そもそも、ウェーバーによると、「私的、資本主義的経営内における支配関係も、階層的に組織された多数の管理幹部を持つあらゆる目的団体や社団の内部における支配関係」(ウェーバー1922=1960:34)も、官僚制と同じ合法的支配の型に入るとのことである。
したがって、今般のケースはいわゆる「官僚」だけの問題ではなく、現代社会の組織全般に通底する問題である。実際、日本のようなハイコンテクスト社会では、「忖度」が生じやすい。そして、それは時に非人間的な統制を生み出してしまうのである。
アームズ・レングスと独立のジレンマ
日本学術会議の件に関しては、一連の騒動を踏まえて、自民党のプロジェクトチームが「日本学術会議の改革に向けた提言」をまとめ、2020年12月11日に政府に提言書を提出している。同提言書においては、組織の現状に関して、「政府の内部組織として存在しているにもかかわらず、政府から独立した存在であろうとすることで生じている矛盾」(自由民主党2020:2)を指摘している。
そのため、ふさわしい組織のあり方については、「政府機関から組織として独立させ」(ibid.)たうえで、「政治や行政からの独立性を正しく定義し、合理的連携を図る」(自由民主党2020:3)必要があるとされている。
このような改善策が実行された場合、政府と日本学術会議との「距離」は長くなるが、果たして問題はこれで解決するのであろうか。この提言案は、まるで、体の良い「やっかいばらい」のように見えはしないであろうか。
じつは、政府と関係する独立機関との「距離」が長ければ良い、というものではないという点で、本稿が扱っている問題は、文化政策における「アームズ・レングスの原則」の問題と相似している。
この「アームズ・レングスの原則」(arm's length principle)とは、文化支援の専門機関であるアーツカウンシルと政府との間に「一定の距離が置かれ,独立性が与えられている」関係のことである。
「アームズ・レングスの原則」において、アーム(腕)が短すぎると、文化芸術の分野に政治や官僚機構が介入することになってしまう。では、アーム“短く”なることが問題であるとするならば、政府とアーツカウンシルの間のアームを“長く”すれば、問題は解決するのであろうか。じつは必ずしもそうではないのである。「腕が長い」状況が継続されると、たとえば、文化担当省庁(部局)は財務当局(省庁)に対して、文化芸術政策の必要性を説得するリアリティを徐々に失っていくことになると懸念される。このことは結果として、文化政策の弱体化と縮減を意味する。
すなわち、政策の実現にあたって、政府と独立機関(上記の事例ではアーツカウンシル)の「アーム」が長ければそれでよいというような、単純な問題ではないのである。こうした状況は、アーツカウンシルをはじめとして、日本の自治体文化財団にも共通する「独立のジレンマ(Independence dilemma)」と呼ぶことができる(太下2017:56-57)。
日本学術会議の場合も、もしも政府との「アーム」を長くして、政府から完全に独立させた場合、現在の独立行政法人等と同様に、政府負担は徐々に減少していき、民間的な組織に移行するものと推測される。そして、そのことは同時に、政府にとっての日本学術会議の重要性も低下していくことを意味する。
おわりに:自由な意思や思想を涵養するためのアートへの期待
さて、「あいちトリエンナーレ2019」に端を発して、2020年8月から11月にかけて愛知県・大村秀章知事に対するリコール運動がおこった。その後、リコールの署名に大量の不正が発覚したことにより、愛知県選挙管理委員会は地方自治法違反容疑で容疑者不詳のまま刑事告発を行った。いつまで経っても話題の尽きないトリエンナーレである。
それはさておき、この不正を最初に発見したのは、ひとりのボランティアであった。仮にこのボランティアをM氏としておくと、M氏は大量にある不正無効署名簿を見て明らかに無効になりそうなその署名簿を提出しないために抜き取ったとされる(*15)。
もしもリコール運動が官僚的組織によって統率され、運営されていたとしたら、今回の不正は発覚しなかったかもしれない。自分の意思で自発的に参加し、自律的に「考える」存在のボランティアであったからこそ、署名の不正を見過ごすことができなかったのだと推測される。
この出来事は、NPOなどのボランタリー・アソシエ―ションが、「『人間疎外的』な官僚制組織の反対物」(仁平2001:176)、すなわち「アンチテーゼ」となり得るという言説と照応すると、より象徴的な出来事だと理解できる。
そもそも、日本における「ボランティア」という概念の受容は、「自由意志」や「自発性」を原点としていたという指摘がある。1970年代以前は、「ボランティア」という言葉自体が一部の人々にしか知られていなかった(仁平2002:72)。この日本における「ボランティア」普及の黎明期にあたる1970年代前半までのボランティア関連の論文を広範に集めた資料集として『ボランティア活動の理論』(1974)がある。同資料集で紹介された論文を分析すると、「ほとんどの論において「自由意志」「自発性」が強調され、その点に意義が置かれている」(仁平2002:70)とのことである。そして、「『人間性』概念と関連づけて活動を意義づける言説」(ibid.)が目立つのである。世界が高度に資本主義化していき、人間疎外的な官僚制組織によってがんじがらめになっていくという、息苦しい社会においては、自分の意思や思想を涵養し、人間らしく生きられる場が必要なのだとも言えよう。
こうした日本におけるボランティア受容の歴史的背景を踏まえると、前述したリコールの不正署名を最初に公にしたのが、ボランティアであったあったことは、これからの社会において、「自由意志」と「自発性」の重要性をあらためて再認識できた象徴的な出来事であったと言えよう。
現代のヨーロッパを代表する知識人のひとりであるジャック・アタリは、これからの世界で発生する危機を予測したうえで、混乱と激動の21世紀を生き抜くために、個人、企業、国家、人類のそれぞれのサバイバル戦略として「7つの原則」を論じている。そして、「歴史の教訓を学べば、危機をバネにして改革を促し、危機から脱出し、危機の前よりも頑強になることは可能だ」 (アタリ2011=2014:21)と述べている。
実際に、日本では1995年に発生した阪神・淡路大震災をきっかけに、従来とは異なる多数の市民がボランティアとして復旧活動に参加した。そのため、同年は「ボランティア元年」と呼ばれる。こうしてボランティアの存在が社会から注目されたことにより、多くが任意団体であった既存のボランティア団体の立場を強化すべきという声が高まり、結果として1998年に「特定非営利活動促進法(NPO法)」が成立した。これも危機からのサバイバルであったのかもしれない。
また、2011年の東日本大日本大震災の発生直後から、様々な団体によって震災アーカイブに取組みがなされ、現在までに数十の震災アーカイブが構築されている。こうした動向を契機として、災害の悲劇を後世に継承する必要性が強く認識されている。そして、デジタルアーカイブの総合的な振興法も議論されはじめている。これも社会のサバイバルの表象の一つであろう。
いま現在において世界最大の危機とも言える新型コロナウイルスであるが、アフター・コロナの社会において、どのような変革の萌芽が生まれるのであろうか。
ちなみに、前述したアタリによる危機からのサバイバル戦略の「第1原則」は、「自らが、自らの人生の主人公たれ。そして、生きる欲望を持ち、自己を尊重せよ」(アタリ2011=2014:28)と、私たちを鼓舞するようなテキストとなっている。
「隠されたルール」のもとで、「考えない」個人が、それぞれの仕事に粛々と勤しんでいる姿は、現代社会の「病」そのものであるとも言える、そんな世界が到来しないようにするためには、まず個々人が自分の頭で「考える」ことが必要である。そして、より広く、より深く「考える」ために、知識や論理だけでは十分ではなく、感性の涵養や多様性への理解が必要不可欠であろう。このように感性を涵養し、多様性への理解を育む機会を用意するのが、アートの役割ではないのか。そして、自由意思に基づいて「考える」ことのできる場が、ミュージアムや劇場等の文化的機構なのではないか。これらの文化的機構が、アフター・コロナにどのようなサバイバルを提起するのか、注意深く見守っていきたい。
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