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イメージの連なりを駆動する「衝撃の美学」。富田大介評 contact Gonzo長編映画作品『MINIMA MORALIA』

パフォーマンスをはじめ、インスタレーション・映像・写真作品の制作を行うアーティスト集団contact Gonzo。新型コロナウイルスの影響下において、長編映画作品『MINIMA MORALIA』のオンデマンド配信をスタートした。発表のたびに素材を加え、編集を更新し、変化し続ける「半ドキュメンタリー」を、美学・舞踊論研究者の富田大介が紐解く。

文=富田大介

contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より

断片の接触

 contact Gonzoの作品には「〇〇についての考察」というのがいくつかある。それも以下に記すようにアドルノの著作に拠るのかもしれないが、「コンタクトゴンゾ」という命名自体に、自身のアプローチで対象に迫るという意味合いが、すなわち物事の前提を疑うという哲学がある。彼らはポジティブに「でたらめ」であることを方法とし、既存のダンスのレッスンやワークショップには通わず、自ら表現の技を開発してきた(*1)。いまはソロで活動している垣尾優が、2006年に現メンバーの塚原悠也を「接触やろうや」と誘ったことに端を発するコンタクトゴンゾ。その初期映像──扇町公園や梅田駅構内、八幡の壁の前で取っ組み合うふたり──にはそんなラディカルなリフレクションをうかがうことができる。

 塚原いわく「「MINIMA MORALIA」は、哲学者のテオドール・W・アドルノの本のタイトルです。今思うとちょっとカッコつけすぎなんですが、静かにゆっくり旅するという印象と、言葉の感じが合うのでつけました」(*2)。アドルノの著書『ミニマ・モラリア 傷ついた生活裡の省察』は、彼の友人で共同研究者のマックス・ホルクハイマーに捧げられたものだ。その「献辞」には書物の特徴がこう記されている──「憂鬱な学問の一端」「アフォリズム特有のてんでんばらばらの纏りのなさ」(*3)。塚原が気に入ったという印象が本の内容とも関わるものなのかはわからないが、今回の映画はそのてんでんばらばらな感を継いで編集された、旅や移動の、より正確には動くことの記録集/詩集となっている。

 光る断片に目を向けよう。

contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より

 最初の森林場面【00:16-】。撮影者は、木材を積んだクローラー運搬車とそれを誘導する者に意識を向けている。(「もうちょいこっち」の声に反応した)操縦者が「いや、ひとりじゃ無理、ひとりじゃ無理」と訴える。撮影者は、応援のため(カメラを自分の体のある部位につけて)、誘導者とともに運搬車へと近づき、操縦者を助けようとする。そこでカメラは「対象」を見失い、撮影者の身体が動くままに、物事をフレームに収める。空中やら車体やら地面やら、木々やら何から何まで。そんな動的切片を見る私たちは、いつしか画面の内側に引き込まれている。そのイメージは私たちに、その時間そこにいる人たちと行動をともにしているような感覚を与える──この感じはかつてゴンゾが比叡山で(雪山を登ったり駆け降りたりしながら)撮っていた映像ともつながる。

 最初のこの森林の場面は、クローラー運搬車の騒音がヘリコプターの音にも聞こえるなど、戦禍のごときある種の非常事態を脳裏によぎらせよう──それはまた、盲人がこの映画を聞くならどう感じるだろうかとも考えさせる(少しのあいだでよいので目をつむってみてほしい)。

contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より

 音との関係にも注目していこう。室内パフォーマンスの場面【01:19-】。撮影場所はおそらく大阪・中津の小展示空間PANTALOON。撮影者はそこで出演者(塚原・松見・三ヶ尻)を追うように手持ち撮影している。もし鑑賞者がヘッドフォンをしていたら、とくにここで注意をひくのは「足音」ではないだろうか。音は接触の証。ひそやかな足音は、現場の感触を私たちの内に起こさせる。それは私たちの自己受容感覚、そして視覚へも作用し、たとえば人影【2:03-】などに対して敏感にさせるだろう。何気ない映像が動物的な気配を帯びたイメージになる(*4)。

 飛行機の着地場面【16:38-】。この映像の撮影者は、飛行機の着陸時のタイヤを機内の窓から撮り続けている。それを見る私たちの耳には、着陸に際して自然な風音と機体音が聞こえている、と同時に、その少し前からウニャウニャと機械音声の早回しのような音も聞こえている。妙であるのは、その自然音(機体音「ヴーーン」)がハエなどの羽音にも聞こえることだ。空耳のはず。しかし、タイヤの映像にふと果物や植物の静止画が組み合わされもする。タイヤが地面につき、自然音がそのこすれる音に変わると早口(ウニャウニャ)のボリュームも上がり、私たちは意識から「ハエ」を遠のかせる……。そのとき、地面を高速で回転するタイヤの映像に「カビ(黴菌)」の静止画が組み合わされる。聴覚イメージと視覚イメージが裏で一瞬交差するこのモンタージュは、contact Gonzo(でたらめな接触)を方法とする、衝撃の美学の妙と言える。

contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より

 そのまま続く「鮟鱇」を捌く場面【18:34-】も、視覚イメージと聴覚イメージの関係を遊ぶものだろう。ただここには、その不釣り合い(おかしさ)(*5)を自ら失笑するようなニュアンスも含まれている。ダンスボックスの手ぬぐいを角に収め、古いものを懐かしむような色調に補正された映像に、先の八幡の壁などのモノクロ写真が挟まれる……、それらがあいまってテニスコーツの曲(「マイカー炎上」)はノスタルジックに響きもする、が一瞬でいい、その音楽を消して、捌かれている鮟鱇の映像だけを眺めてほしい。その視覚イメージがどれほど聴覚イメージと奇異な関係を結んでいるかがわかるだろう。ただしここでも妙なのは、そのたがいに独立しているようなふたつのイメージが、鮟鱇が捌かれるにつれて(「裁かるるあんこう」とさえ言いたくなる)、歌が繰り返されるにつれて(「かぜにめをとじれば」の「目」が耳に残る)、生々しく表情を似せてくることである。

contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より

 さて、この映画には画面そのものを もてあそ ぶところもある【40:32-】。ただしその振る舞いは、いかがわしさや夢、眠りに関わる余興と言えるかもしれない。人間は想話機能を持ち、物語を求める。YCAMでの祈祷から始まる一連のイメージ【1:02:01-1:08:53】に、弔う/流される(-溺れる)(*6)/海の底……、といった淵を覗く人もいるだろう。実際、続く映像は東北の津波被害甚だしい地での記録【1:08:54-】である──被災写真の洗浄の場面では個人的に「思い出サルベージ」の知人の話を思い出した。故・松本雄吉を映す場面【1:11:20-】もそうであろう。彼は、映像にあるホッキョクグマ(白熊)にも似て、自然そのもの。しかしそのイメージがトリガーとなり、続く場面【1:13:23-】で私たちは、人間の本性(闘争本能)の残酷さを垣間見ることにもなろう。テーマは先の「震災」から「戦争」の死に移る──移動中の雨音は次第に銃弾音のように聞こえもする。戦没者の霊/カタパルト(*7)/戦火(空襲)/危殆/飢渇……。眠りはそうした見なくてもよいもの──パフォーマンスのネガ──まで透かし見させる。

contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より
contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より

 最後に、いつも眠そうな顔をしている垣尾優の踊りの場面【1:31:16-】について。コンタクトゴンゾにとって、垣尾は松本のように尊敬する存在だ。彼のダンスシーン(大阪・中之島にある中央公会堂での公演『ゴンゾ解體新書』の記録映像から編集されたと思われる)は、この映画に収められることを望んでいたかのようなしっくり感をもつ。垣尾は、白熊と同じ見世物小屋のなかで、それ以上に大胆に遊んでいる。そのでたらめな踊り、ゴンゾ的超絶ダンスは、何度も繰り返し見られてよい。そしてそれを堪能した後で、もう一度、この映画をはじめから見てみるならば、オープニングの平行に走る遠方の飛行機に、彼へのリスペクトを、すなわち彼とともに始まったcontact Gonzoの「開始の力」を直観することだろう。

 蛇足ながら付言すれば、この映画の素材はおおむね記録目的で撮影された映像だと思われる。多くの場面はそれゆえ行動や状況のイメージとなる。鑑賞者の内には「長いトレイラー」の印象をもつ人もいるかもしれない──筆者もその印象を拭いきれない。とはいえ、この作品にコンセプトと構成があることは疑いをえず、それぞれの現場で撮影された記録映像のモンタージュに、どんな思考や感性が働いていたのかを探るのも、鑑賞の一手である。このレビューで示したのは、たとえば「死の哲学とカタストロフィの物語」のようなフレームでの断片の接触だが、ゴンゾの小道徳にあまり厚手のヴェールを被せるのは野暮であろう。見る者がそれぞれに光る動的切片を見つければ、それでよいように思われる。

contact Gonzo『MINIMA MORALIA』より


*1──国際交流基金「アーティストインタヴュー」2011年5月11日 (https://performingarts.jp/J/art_interview/1104/1.html)。この記事では「MINIA MORALIA」となっているが、脱字と判断し、「MINIMA MORALIA」に正した。
*2──同上。ミニマ・モラリアという表題は、たとえば「おおさか創造千島財団」の2016年の創造活動助成「contact Gonzo10周年記念映画「minima moralia」の製作、及び発表」でも使われている。今回のレビューの対象となったオンデマンド配信映画『MINIMA MORALIA』は、山口情報芸術センター(YCAM)での催し「wow, see you in the next life. / 過去と未来、不確かな情報についての考察」の関連上映(2020年1月18〜19日)に際して作成されたものと思われる。
*3──Th.W.アドルノ著/三光長治訳『ミニマ・モラリア 傷ついた生活裡の省察』、法政大学出版局、新装版2009(初版1979)、p.1-7。なお、この書の訳者である三光は「訳者あとがき」で次のように言っている。「表題のMinima Moraliaは、アリストテレス作と伝えられるMagna Moraliaにあやかったものと考えられる。アリストテレスの倫理学が政治学の一環としてポリスを場とした「正しい生活」の追求を意図していたとすれば、「個人生活をその隠微な襞にいたるまで規定しているさまざまの客観的な力の探求」を通じて行われる本書の模索も、その点において遠く古代ギリシアのモラリアに呼応しているのである。ただマグナがミニマに変わっていることには、たんなる量的な対比の域をこえて、プラスがマイナスに転じたほどの相違、もっと言えば現在のポリスにおける正しい生活の不可能ということが寓意されているのかもしれない。ところで本書はもう一つ隠れた表題を持っている。「献辞」の中に出てくる「憂鬱な学問」がそれで、こちらはニーチェの『楽しい学問』、通称『悦ばしき知識』の、これまた現代のもつイメージを暗転させたもじりである。そしてこの隠された表題の方が本当を言えばこの本の性格にふさわしいかもしれない」(p.405-406)。
*4──PANTALOONでのこの上演の映像は映画中盤で再び映される【58:18-1:02:00】。それはエキサイティングな展開を追ったもので、とりわけ三ヶ尻の背から落ちた後の塚原の反応【頭を擦り付ける身震い 59:39-59:43】には目を見張るものがある。思えば『シネマ』の哲学者は、あるインタビュー映像のなかで、動物はいつでも身を尖らせている(待ち構えている)と話していた。「動物は食べていても警戒している。背後から何かが襲ってこないか…」(「動物 A comme Animal」『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』所収、KADOKAWA、2015)。ゴンゾのこの映画ではcontact Gonzo + YCAMの参加型アウトドアプロジェクト「hey you, ask the animals. / テリトリー、気配、そして動作についての考察」の時に撮影されたとおぼしき映像が少なからず使われている。ちなみに、撮影時の環境やそのときの撮影者の感触を呼び起こす聴覚イメージについては、身体や機材にあたる風の音【53:05-】など。
*5──原章二がLe Rire étrange : Bergson avec Freudの邦訳に際して付した訳者解説「あそび・言語・生」で述べていることを参照されたい。「〔前略〕一方において、あそびをなくしてこわばったものを社会が笑うとするならば、他方において生(性)は一瞬、そうしたものを不気味な淵へ連れていくのではなかろうか。日本語でも「おかしい」とは、笑うべき滑稽なさまであると同時に、普通と違って魅力のあるさまであり、奇異で怪しげなさまである」(ジャン=リュック・ジリボン著/原章二訳『不気味な笑い フロイトとベルクソン』、平凡社、2010、p.105)。
*6──一連のシーンの最後のイメージ(スローモーション映像)【1:07:48】に注視されたい。
*7──注6同様、一連のシーンの最後のイメージ(スローモーション映像)【1:20:12】に注視されたい。

編集部

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