伝統的に、美学や美術史の分野で大きな存在感を示してきた東京大学(以下、東大)。その東大が、芸術を中心に据える一大プロジェクトに乗り出した。それが、5月1日に発足した「東京大学芸術創造連携研究機構」だ。
同機構は、総合文化研究科を責任部局に、医学系研究科、教育学研究科、工学系研究科、情報学環・学際情報学府、人文社会系研究科、数理科学研究科の7部局が連携するというもの。芸術創造に関連する多様な分野の研究者が連携し、芸術家との協働・連携も行いながら、芸術創造に関する分野融合型の研究を推進することを目指す、としている。
昨今、ビジネスの領域では、美意識や美術的な教養の重要性が頻繁に説かれているが、そのことと今回の機構発足にはなんらかの因果関係があるのだろうか? 同機構で副機構長を務める総合文化研究科准教授・加治屋健司はその発足経緯についてこう語る。
「私と同じ副機構長を務める教育学研究科の岡田猛教授が芸術の創作プロセスを認知科学から研究しており、教育学部で芸術家による授業を展開していました。じつは教養学部でも、とくに表象文化論研究室では、長年にわたって、山口勝弘さんや野村萬斎さん、青山真治さんなど、芸術家を招いて授業をしていましたし、専任の教員が映像編集や展覧会企画といった実践的な授業を行うこともありました。2017年に、岡田教授から連携しないかという提案があって、始まりました。美大生ではない学生が芸術に触れることで創造力ーー何かをつくり出すということはどの分野でも必要なものですーーを伸ばしていけるのではないか。一般学生にこそ芸術は必要ではないか、ということを話し合いながら進めてきました」。
そもそも東大では、各研究科がそれぞれ独自に、芸術と関わりを持ってきた。例えば写真家・杉本博司は、数理科学研究科所蔵の幾何学模型を撮影した作品を制作しており、カブリ数物連携宇宙研究機構ではアーティスト・イン・レジデンスも実施している。またインダストリアル・デザイナー・山中俊治が所属する生産技術研究所などもある。他分野では複数の研究科にまたがる「連携研究機構」が学内に多数存在するものの、芸術に特化した機構は存在しなかった。
「私が赴任したのは2016年ですが、全学的な会議などがないかぎり、他研究科の先生方と接点がない。こういう枠組みをつくったことで新たなつながりができてきました」。
この機構では、例えば総合文化研究科の「文理融合のアプローチによる基礎研究および前期課程における芸術教育の充実」や情報学環・学際情報学府の「情報を切り口とした芸術基礎研究とメディアアート等の情報テクノロジーをベースにしたアートの実践」など、各研究科ごとの取り組み目標が定められている。しかし何より特筆すべきなのは、授業に「実技」を取り入れようとしていることだ。
現在、実技授業は、専門に分かれる前の1~2年生だけでなく、教養学部と教育学部の3~4年生にも提供している。科目によっては他学部の学生や大学院生も履修できる。なぜ「知識」だけでなく実技を重視するのだろうか? そこには海外大学の先進的な事例が理由として存在するという。
「ハーバード大学やイェール大学、北京大学や清華大学など、世界の主要な大学は芸術実技の導入に積極的に取り組んでいます。リベラル・アーツ(教養教育)として芸術実技の授業を開講したり、近年になって芸術学部を設置した大学もあります。しかし日本の総合大学で、こうした試みをしているところはほとんどありません」。
同大では若い時分にアーティストにふれることを重要な経験だとし、これまで、O JUN、長島有里枝、藤井光、カール・ストーン、近藤良平(コンドルズ)、野老朝雄、真鍋大度などを招へいし、ドローイングや写真・映像、音楽やダンス、プログラミングなどの授業を行ってきた。
しかし、そうした実技が一般の学生にもたらすものとはなんなのだろうか? 加治屋はこう説明する。「日本の大学に入るまでの教育は、解答があることを前提とした問題があり、いかに論理的に効率よく解答に至るかが重視されます。しかし現実社会には『答えがあるかどうかわからない問題、答えがない問題』がたくさんありますよね。芸術の創造にも基本的に答えはありません(ただし、芸術の解釈には、変化することもあるにせよ、もっとも妥当と言えるものがあることも少なくありません)。実技では創造性を養うことと同時に、答えがない状況で何ができるのかを考え、体験することに意味があると考えています」。
加えて重要なのは、多様な価値観を育むことだという。「現代の芸術では、常識とされることに疑問を持ったり、見過ごされていることに関心を持ったりすることから、作品が生まれることもあります。それは当然、社会の中でつくられた価値観を見直すことにもつながります。見過ごされてきたけれど大切に思えることに対して、いかにアプローチできるか。『芸術的感性』とは、その能力ではないでしょうか」。
この「多様な価値観」を芸術に求める機運、そして芸術的感性に対する熱い視線は、ビジネスシーンのそれとも重なる。これについて加治屋はこう語る。
「私は英語圏で美術史を学んできて、それが美術に対する理解のベースにあります。しかしこの枠組みをつくろうとなってからいろんな先生方と出会い、(とくに理系の先生は)私とは異なる芸術の観念を持っていることに気づいたんです。そしていまでは、いろんな芸術観念があってもいいんじゃないかと思うようになりました。ですから、『ビジネスに役立つアート』という考え方がひとつの可能性としてあってもいい。ですがもちろん、アートはそれだけではありません。ビジネスに活かす人もいれば、先端的な研究に活かす人もいる。アートを通して社会のあり方を考える人もいるでしょう。様々な可能性に満ちているのが芸術だと思います」。
日本には、アートセンターを持つ慶應義塾大学や、博物館を持つ早稲田大学、あるいは総合博物館を有する京都大学などがあるが、芸術実技を取り入れている総合大学は少数派だ。この東大の動きは、他大学にも伝播していくのか? 今後の具体的な取り組みが待たれる。