──国立の美術館として、今回のような有料の対話鑑賞プログラムを行う、というのはとてもチャレンジングなことだと思います。まずはこのプログラムが開発された経緯を教えていただけますか?
もともと当館では、「対話鑑賞プログラム」というものを16年ほど続けてきており、そのノウハウが積み重なってきている状態でした。一般の方々を対象にした「所蔵品ガイド」を毎日行うとともに、子供や学校、ファミリーに対する教育普及として鑑賞教育も進めてきたのです。それと同時に、夏の期間中は金曜夜に「フライデー・ナイトトーク」というお仕事帰りの人々も参加できるようなプログラムもやってきた。
そんななか、山口周さんの著書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 』(光文社)などがあるように、アートとビジネスの関係が盛り上がりを見せています。当館でもビジネスパーソン向けのプログラムをやりたいねという話はずっとしており、機が熟したのかなと。
いままでの来館者だけでは美術館は厳しく、どれだけファンを広げていけるかというのはとても重要なこと。私たちの命はコレクションですので、これまで「美術館に縁がない」と思っていた人たちや、若い人たちにも親しんでもらいたいのです。
──そういう経緯があり、山口さんに白羽の矢が立ったと。
そうです。ご著書の中で山口さんはビジネスパーソンにとっての美術鑑賞の重要性を説かれています。しかし実際にどこで何をすればいいのかは書かれていない。そこで当館であればご一緒できそうですねとなりました。じつは1年ほど前にプログラムの原型はできていて、3回ほど内輪だけでトライアルはやったんです。そこでとてもいい感触を得たのでこの6月の実施へと至りました。
──プログラムの具体的な内容について教えてください。
まずはアイスブレイキングを行います。ここでは美術作品をカードにした鑑賞教材である「アートカード」を使います。そして5人ずつ6つのグループに分かれてもらい、各グループに普段から所蔵品ガイドを行っているガイドスタッフが1人ずつ付き、1時間強で3作品を鑑賞します。椅子も絵画鑑賞のためにつくられたレクタス社の「ギャラリーチェア」というものをスウェーデンから取り寄せてあるので、それを使うんですよ。その後に山口さんのレクチャーを1時間弱ほど行っていただきます。
大事なのは、実際に作品鑑賞を体験してもらうことと、その鑑賞が「なぜビジネスに必要で、どのように意識していくのか」を山口さんに話してもらうということ。
ギャラリートークも一方的なものではなく、双方向的な対話鑑賞の手法を使います。進行役は問いを出しながら、参加者の疑問や気付きを引き出していく。
──その対話の中で、作品の美術史的な読み解き方は提示されるのでしょうか?
正解はとしては出しません。グランド・ルールとして「アートに正解はありません」ということからスタートします。これは日本がとくに顕著かもしれませんが、ある年代以上の男性などは自分が知らないことについて話すのを嫌がりますよね。そこから崩していくのが対話鑑賞の手法なんです。つまり「前提とすべき知識がなくとも、あなたは絵を見ることができるんです」というところから始まる。
そのためには、まず「よく見る」こと。そこから生まれた疑問や考えたことを言語化し、ほかの参加者の意見にも耳を傾けていただく。そうして思考をシェアしていくうちにみんなの考えが焦点化し、ひとつの推論へとつながっていくんです。
ですから、ここで目指しているのは評論家や美術史家が作品に対して価値付けている文脈ではなく、参加者=私にとってその作品はどういう意味があるのかということ。そして作品をよく見たという実感、他者の意見の受容などを得ていただきたいと考えています。
──イギリスのテートなども、じっくり作品を鑑賞するためのガイド「A guide to slow looking」をウェブ上に公開していますね。
テートの場合は鑑賞やエデュケーションに関して、真ん中に「自分」があり、その周囲にオブジェクト(対象)、コンテクスト(文脈)、サブジェクト(主題)がある、という考えを提唱しています(*)。
どうして最初から作品解説しないのかというと、その作品情報を先に知ってしまうと、あとはそれを追認するだけになってしまうからです。「指差し鑑賞」ですね。そうではなくまずは観察する。スキャンするようにじっくり見ていく。それもできればみんなで見て、言語化して、みんなで共有していくことが大事です。そうするといろんなことに気づけるんですね。
もちろんファシリテーターはしっかりと作品研究をしたうえでその場に臨みますが、準備した情報を出すか出さないか、出すとすればタイミングはいつかなどは、対話の進み具合を見ながら判断するんです。参加者が美術史を学びたい人や教養を深めたい人であれば、情報の出し方はまた違ってきます。
──そういう意味で、今回のプログラムは「アートの教養を深めよう」ではないということですね。
そうです。昨今、書店ではビジネス・アート系の書籍がたくさん並んでいますが、そこには2種類あります。ひとつは我々がやろうとしている「見ること」「言葉にすること」、そして「他者を受容すること」などに重きを置いているもの。もうひとつは「教養としての美術」です。けっして後者をないがしろにするわけではありませんが、今回の目的は前者です。前者から入れば、興味を持てば自分で調べますよね。美術への入り口になることができる。もし後者から入ってしまうと、まだ誰も価値付けていない最新のアートが出てきた場合、見ることができなくなってしまう。
──今回のプログラムでは募集開始後、すぐに定員に達したとのことですが、この反応の速さについては予想できましたか?
驚きましたね。これまでとにかく「プログラムは無料じゃないといけない」という考えがありました。もちろんそうした無料プログラムは続けていきますが、有料でもターゲットを絞り、質の高いものを提供していかないと(普段美術館に来ない人たちには)届かないなということがわかりました。
──美術館の教育普及プログラムのあり方も変わっていくタイミングなのかもしれないですね。
もうひとつ、当館では今年の3月から英語での鑑賞プログラム「Let's Talk Art!」というものを始めています。毎週金曜夜18時半から3作品を、ファシリテーターと会話しながら鑑賞するというもので、訪日外国人の方々を主な対象にしていて、異文化交流も視野に入れた1500円(観覧料込み)の有料プログラムです。
──最後に、今回のプログラムを通じてどのようなことを期待されているかをお聞かせください。
こういう体験をすると、鑑賞した作品のことをたぶん一生忘れないと思います。忘れないということは、その作品はもう頭の中に入っているということ。美術作品を見る新しい方法を通して、参加者それぞれが自らの殻を破り、少しでも自由な考え方に近づいていただければ嬉しいですね。そしてこれを機に、当館だけでなくほかの美術館にも行ってみようかなと思ってもらいたいですね。
*──『美術館活用術 鑑賞教育の手引き ロンドン・テートギャラリー編』(美術出版社、2012)より