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「画家の王」ルーベンスとイタリア。その芸術形成のプロセスを読み解く

17世紀ヨーロッパを代表する画家、ペーテル・パウル・ルーベンス。その作品をイタリアとの関わりに焦点を当てて紹介する展覧会「ルーベンス展―バロックの誕生」が国立西洋美術館で2019年1月20日まで開催されている。本稿では、同展の見どころとともに、ヨーロッパ美術史に後々まで大きな影響を与えたルーベンスの芸術の形成過程をアートライターのverdeが紹介する。

文=verde

アントワープ聖母大聖堂にある《十字架降架の三連祭壇画》(1611-14) 提供=フランダース政府観光局

 17世紀バロック最大の巨匠、ペーテル・パウル・ルーベンス。画家だけではなく外交官としても活躍し、ヨーロッパ各国をめぐった彼は「王の画家にして、画家の王」とも呼ばれている。

 日本においては、とくに児童文学『フランダースの犬』で、主人公ネロが憧れた画家として、よりなじみ深いのではないだろうか。ネロが感銘を受けた祭壇画を含め、ルーベンスの芸術は、若き日の8年間を過ごしたイタリア、そしてその地で育まれてきた古代から15〜16世紀のルネサンス、そして同時代の最先端美術バロックに至る「美の蓄積」に深く根差している。

 現在、上野・国立西洋美術館では、このルーベンスとイタリアとのつながりに焦点を当てた展覧会「ルーベンス展―バロックの誕生」が開催されている。本稿では、展覧会の見どころとともに、ヨーロッパ美術史に後々まで大きな影響を与えたルーベンスの芸術が形成されていった、そのプロセスを紹介していこう。

展示風景

ルーベンスと彫刻―人体の理想美

 ペーテル・パウル・ルーベンスは1577年にドイツのジーゲンで生まれた。父の死後、両親の出身地であるアントウェルペンに家族とともに戻る。14歳のときに画家としての修行を開始し、3人の師匠のもとで修業した後、21歳で親方として独立する。その2年後の1600年5月、彼はイタリアへと旅立った。

 ルーベンスに限らず、当時の北方の画家たちにとって、イタリアに行くこと、そこで最先端の美術や古代彫刻の実物を鑑賞し、学習することは習慣となっていた。とくに古代ギリシアやローマの古代彫刻には、生身のモデルからは得られない、人体の理想美があると考えられていた。

 芸術家たちはそれらを模写することで形態について学んだだけではない。ポーズや感情表現などのレパートリーを増やし、表現の幅を広げていったのである。とくに北方の画家たちにとって、そのような古代彫刻が多く残るローマに行くことはまさに宝の山に足を踏み入れるも同じだっただろう。

 ルーベンスもまた、数多くの彫刻を見て回っては模写していくが、その対象は神々や英雄を表したものから動物まで幅広い。また正面から見られることが一般的な彫刻を、角度や方向を変えながら、綿密に観察、素描し、研究を深めていった。

 とりわけ彼の関心を強く惹きつけた1点が《ラオコーン》である。1506年に発掘されたこのヘレニズム彫刻の傑作はミケランジェロをはじめ、多くの芸術家たちを惹きつけた。

ラオコーン ヴァチカン美術館蔵 ※本展未出品

 ルーベンスはこの《ラオコーン》をあらゆる角度から——ときに全体像、ときに部分と——少なくとも15回は模写している。そしてその成果は『フランダースの犬』にも登場する《キリスト降架》(1612-14)、(後に紹介する)《聖アンデレの殉教》(1638-39)などの大作へと結実していく。

 ここで展覧会の出品作から、彼の取り組みを感じさせる作品として、《エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち》(1615-16)を紹介しよう。

エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち 1615-16 キャンバスに油彩 ファドゥーツ/ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション ©LIECHTENSTEIN. The Princely Collections, Vaduz-Vienna

 これはギリシア神話中のエピソードに基づく作品で、アッティカ王ケクロプスの3人の娘たちが、大地の女神ガイアの息子エリクトニオスを発見する場面が描かれている。

 作品の前に立ったときにまず目につくのは、やはり赤子を取り巻く3姉妹であろう。彼女たちのポーズをよく見てほしい。左端の女性が斜め下を向き、真ん中の女性が正面、そして右端の女性が横顔と、それぞれに顔も胴体も異なる向きから描かれている。

 ルーベンスは3人の女性に異なる向きのポーズを取らせることで、あらゆる方向から見た女性の身体の美しさをひとつの画面の中で表現してみせたのである。

ルーベンスとティツィアーノ——「色彩」の力

 こうしてルーベンスは彫刻から多くを学び、ポーズを作品に引用するなど、その成果を自分の作品に取り入れて行った。しかしそのいっぽう、ルーベンスは手稿の中で次のように警告を発している。

 「......彫刻は賢明な使い方をするよう心掛けねばならず、何よりも石のような感触は断じて避けねばならない」(クリスティン・ローゼ・ベルキン著、高橋裕子訳、『岩波 世界の美術 リュベンス』、岩波書店、2003年、pp.47)

 つまり、彫刻がいかに理想的な美しさを備えていようとも、それが石の塊であることに変わりはない。石の持つ冷たさや硬さ、また角ばったかたち。たしかにそれらの要素は生身の人間の肉体には「断じて」ありえない。ではどうするべきか。

 ルーベンスにとって、その解決策を示してくれた好例が、色彩を重んじるヴェネチアの画家たち、なかでも16世紀を代表する大家・ティツィアーノだった。彼は、ルーベンスが生涯にわたって影響を受け続けた相手であり、とくに1620年代後期、50代の頃にはその作品を何枚も模写している。ここに紹介する《毛皮を着た若い女性》(1536~38)はそのうちの一枚である。

ティツィアーノ 毛皮を着た若い女性 1536~38 ウィーン美術史美術館蔵 ※本展未出品

 女性のポーズは古代彫刻「恥じらいのヴィーナス」がもとになっているが、その肌はほんのりとバラ色を帯びて柔らかい。触れれば体温も感じられそうである。また、ハイライトを点じられた黒い瞳は生き生きと輝き、まさに生きているかのようだ。

ペーテル・パウル・ルーベンス、ティツィアーノに基づく 毛皮を着た若い女性像 1629~30頃 ブリスベン、クイーンズランド美術館蔵

 ルーベンスの《毛皮を着た若い女性像》(1629〜30頃)は原作のポーズも色彩も、忠実に再現しているが、2つをよく見比べて見ると、女性の二の腕や唇が、ふっくらとより肉付きを増しているのがわかる。このほうが、彼にとってはより現実の血の通った女性を髣髴とさせたのだろう。

 そしてこの後、晩年になるに従って、ルーベンスは彫刻のような理想的なプロポーションから離れ、彼自身の代名詞とも言える豊満な裸婦を好んで描いていくようになる。

 また毛皮と裸婦の組み合わせも、ルーベンスにとっては新たなインスピレーションの種となった。後に、妻であるエレーヌ・フールマンをモデルに同じモチーフを試みた作品《毛皮をまとったエレーヌ・フールマン(毛皮ちゃん)》(1631頃)を制作しているのである。

ペーテル・パウル・ルーベンス 毛皮をまとったエレーヌ・フールマン(毛皮ちゃん) 1631頃 ウィーン美術史美術館蔵 ※本展未出品

 このように、模写すると言ってもルーベンスは対象となる作品の表面をただなぞっているだけではない。綿密に対象を観察し、そしてに時に自分なりの工夫を加えてみる。そうすることを通して作品と向き合い、自分の血肉とし、さらには後に自身の新しい作品として昇華させていったのである。

集大成——最後の傑作《聖アンデレの殉教》

 最後に、ルーベンスが最晩年に手掛けた宗教画《聖アンデレの殉教》(1638〜39)を紹介しよう。ここには、彼の画業のすべてが集約されていると言っても過言ではない。

ペーテル・パウル・ルーベンス 聖アンデレの殉教 1638-39 キャンバスに油彩 マドリード、カルロス・デ・アンベレス財団蔵 Fundación Carlos de Amberes, Madrid

 制作にあたって彼が参照したのは、師匠ファン・フェーンが手掛けた同主題の作品だった。そこから、まず十字架を中心に置く構図や、人物の配置といった基本的な構成を引用した。

 そのうえで、人物たちの立体的な肉体の表現や劇的な身振り、鮮烈な色彩、素早い筆致が生み出す躍動感など、自身がそれまでに身に着けてきたあらゆる要素を加え、最終的に、このような映画のワンシーンを思わせる迫力ある画面へと仕上げていった。

 聖アンデレは、キリストの十二使徒のひとりで、ペトロの兄弟にあたる。謙虚な性格で、ヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』によると、ギリシアのパトポスで殉教する際に、「師(キリスト)と同じかたちの十字架にかかるのは恐れ多い」という理由から、自ら望んでX字型の十字架にかけられたとされている。彼は十字架の上で2日間生き続け、その間も集まった2万人の人々に教えを説き続けた。

 しかし、そんな彼にもついに最期を迎えるときがきた。

 怒った群衆たちが、処刑を命じた総督に対して暴動を起こしそうになったのである。絵の中でも、髪を振り乱した総督の妻(アンデレによってキリスト教に改宗したひとり)が、馬上の夫に向かって、必死に刑の中止を訴えている。

 さすがの総督もそれを無下にはできずに、大きく右手を掲げて部下に合図を送っている。だが、老使徒は、助かることを拒否した。老いに加え、2日間苦痛に晒され続けたことで、気力も体力もすでに限界を迎えていてもおかしくはない。それにもかかわらず、彼は涙に潤んだ目で空を仰ぎ、最後の力を振り絞って、自分の死を受け入れようとしている。

 あるいは、自分を十字架から降ろそうとする男の一人に向って、こう叫んでいるようにも見えないだろうか。「余計なことをするな」と。そして、「自分は生きてこの十字架から降りることはない」と。

 そんな彼に向って、空からは一条の光が差し込み、殉教のしるしである棕櫚(シュロ)の葉と冠とを手に天使が近づいてくるのも認められる。

 この絵の前に立つと、画面全体から放たれるエネルギーに圧倒される。登場人物たちの感情のうねり、そして口々に叫ぶ声が膚で感じられる。まるで、自身もまた群衆のひとりとなって、聖人の殉教の場面に立ち会っている、そんな錯覚すら覚えてくる。

 技術にせよ表現にせよ、学べることはすべて学びたい、そして自分のものにしたい。ルーベンス芸術をかたちづくり、そしてその魅力の源となっているのは、このどん欲なまでの好奇心と向上心、そしてそれらを50代の壮年期に至るまでずっと持ち続けていたことではないだろうか。

 また、吸収した様々な要素を調和、統合させ、真に自分の血肉としたことにも驚くべきだろう。今回の展覧会では、ルーベンスが学んだ古代彫刻や16世紀の絵画、そしてルーベンスの影響を受けた画家たちの作品も展示されている。

 なかでも彫刻作品については、その周りを一周してみることすすめたい。そのうえで同じ室内に展示されている作品と比較してみたり、その逆に絵を見てから彫刻の周りを歩いてみる、というのもいい。

 ぜひ、ルーベンスの絵の持つ力に、そしてその源になった作品たちに実際に触れて見てほしい。

編集部

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