2018年6月6日より、東京・上野の森美術館では、「ミラクル エッシャー展」が始まった。
「奇想の版画家」と呼ばれるエッシャーとその作品は日本でも人気が高いが、今回は版木やドローイングも含めて152点を集めており、とくに大作《メタモルフォーゼⅡ》の展示が話題になっている。
本稿ではまず二つの観点からマウリッツ・コルネリス・エッシャー(1898~1972)という画家について紹介し、そして最後に彼の集大成と言うべき《メタモルフォーゼII》について読み解いてみよう。
「版画家」への道
エッシャーは1898年、オランダのレーウワルデンに生まれた。父は土木技術者で、日本にもお雇い外国人として滞在した経験を持っていた。
18歳の時に、学校の美術の授業でリノカット(20世紀に開発されたリノリウム板を版板として使う技法)で作品を制作する。これが、エッシャーにとって版画との初めての出会いだった。
その後、1919年にハールレムの建築装飾美術学校に入学し、建築を学び始めるが、やがて版画科に移る。そこで師メスキータと出会い、その指導のもと、木版やメゾティント、リトグラフなどあらゆる種類の版画技法を身に着けていった。
エッシャーはそれらを使いこなしただけではなく、ときには複数の技法を組み合わせて用いているが、そのなかには、メゾティント(凹版)とリトグラフ(平版)という異なる性質を持つもの同士の組み合わせすらあった。
エッシャーの創作姿勢を語る作品として、《眼》を紹介しよう。これは46年に制作されたものだが、この最終版に至る前にエッシャーは7回ものステート(試し刷り)を行っているのである。
エッシャーはその生涯に400点以上の作品を残しているが、すべてが版画であり、水彩画や油彩画はない。このように版画というジャンルにこだわり続け、あらゆる技法に精通し使いこなしたこと、そして納得のいくものができるまで妥協しない姿勢と粘り強さ、それらを考えても、エッシャーの在り方は、ひとつの分野に専心する「職人」に近い。
実際に、エッシャーは自分のことを「芸術家」ではなく「版画家」と考えていた。この事からも、エッシャーの「版画」に対する誇りと思い入れ、そして彼自身そうありたいと願っていたであろう姿がありありと伝わってくる。
エッシャーの着想源
エッシャーという名を聞いて、私たちがすぐに連想するのは、《滝》(1961)のような、一見存在しそうで実際にはありえない不思議な建物、そして《発展Ⅱ》(1939)や後述する「メタモルフォーゼ」シリーズ(1937~)に見られる、ひとつのモチーフ(図形)を反転、回転させて画面を隙間なく埋めていく技法、「正則分割」による作品、主にこの二つではないだろうか。
これらの作品の着想を、エッシャーはどこから得たのか。その答えは、エッシャーが旅行中に経験した二つの事柄に求められよう。
ひとつは、イタリアの風景経験。エッシャーは1920年代にイタリア各地を巡りながら、故国オランダにはない高い山々や、急勾配に立ち並ぶ建物群などのモチーフをスケッチしていった。それらは後に《カストロヴァルヴァ、アブルッツィ地方》(1930)や《アマルフィ海岸》(1934)など、緻密で写実的な風景版画のもとになっただけではない。
特に《アマルフィ海岸》に着目してみると、後に制作された「メタモルフォーゼ」シリーズの一部に描かれた風景イメージとよく似ている。他の風景版画にも、後の作品に通じるモチーフがいくつも見出せる。
そして、もうひとつ、エッシャーにとって重要な意味を持っている経験が、スペインのアルハンブラ宮殿訪問である。
教義によって偶像が禁止されているイスラム教では、動物や人間のイメージの代わりに、抽象的な文様が発展した。アルハンブラの壁を飾る幾何学文様もそのひとつで、その緻密な計算に基づいた、「無限に続くパターンがつくり出す美」は、エッシャーに強い感銘を与えた。
エッシャーは22年と36年の二回、この宮殿を訪れているが、とくに二回目の訪問時は、丸三日かけて、宮殿内の装飾文様を模写している。
さらに、兄から勧められた『結晶学時報』に掲載されていたくり返しの文様についての論文に刺激を受け、エッシャーは「正則分割」について独自の理論を発展させていく。
36年以降、エッシャーの作風は一変する。それまでの具象的なイメージを表した作品から、くり返しの文様の作品へと移行していくのである。
アルハンブラ宮殿訪問は、まさにターニングポイントになったと言って良い。
また、エッシャーはほかにも科学や数学からインスピレーションを受けた作品を多数制作している。
エッシャーには、このように多様な知識や経験のストックがあり、それらを組み合わせることで多くの作品も生まれたのである。
メタモルフォーゼⅡ
アルハンブラ宮殿訪問の翌年から、エッシャーは「新たな出発」の象徴とも言うべきシリーズ作品《メタモルフォーゼⅠ》(1937)(以下《Ⅰ》)に着手する。
その後、39年~40年にかけて、シリーズの第二作目にあたる《メタモルフォーゼⅡ》(1930~40)(以下《Ⅱ》)を制作。わずか2年を隔てて制作された両作品の間には大きな違いがいくつもある。
ひとつは、《Ⅰ》が「一方向の変化」を描いているのに対し、《Ⅱ》は文字に始まって、チェス盤、断崖の上に立つ町から、鳥や魚などのモチーフによる「正則分割」へと変化し、また元の文字へと戻っていく、「無限に続く循環」を描き出している。
また、《Ⅱ》の細部に着目してみるとチェス盤の上に立つ駒のひとつ(ルーク)から橋が伸びて、断崖上の建物のひとつへと繋がっているなど、イメージの繋がり方にも工夫が凝らされている。
二つ目は、その大きさ。縦はどちらも20cm弱だが、《Ⅱ》の横幅は4m近く、《Ⅰ》のそれの約4倍にあたる。貼り合わせた3枚のシートに、20枚の版木を使って制作されている。この《Ⅱ》は、エッシャーがそれまで吸収し、版画の中に表現してきた知識や経験、そして技術、そのすべてが盛り込まれた「集大成」であるだけではない。
数百年前、アルハンブラの装飾文様を手掛けた人々への、エッシャーからの挑戦と言っても良いのではないだろうか。彼は、イスラム教徒たちが使わなかった生物モチーフも構成部品として利用して、彼らと同じように「無限に続く循環」を表現してみせたのである。
しかも、ここで終わりではない。「メタモルフォーゼ」シリーズには三作目がある。67~68年、郵便局の壁画として贈るため、エッシャーは《Ⅱ》の中央にさらに3mの部分を付け加え、《メタモルフォーゼⅢ》を制作しているのである。
つまり長い目で見れば、この《Ⅱ》の段階でもいまだにさらなる進化の可能性を秘めていたと言える。実際に、前述の《滝》や《上昇と下降》(1960)をはじめとする有名な作品が、この後に次々と生み出されていく。
こうしてエッシャーの画歴を見渡してみると、浮かび上がってくる言葉がある。
「粘り強さ」である。
作品一つひとつにおける、緻密な描写だけではない。版画という技法は、原画から版板、紙へと転写する過程で変化・進化しうるし、また版板や紙の状態や木目などがもたらす影響も予測できない。そのような技法をあえて選び取り、全身で取り組む。しかも納得のいくものができるまで妥協せず、試行錯誤を繰り返し、そしてそのなかでさらに進化していく。
その苦労は並大抵の物ではあるまい。しかも、それが69年の最後の作品《蛇》まで続いていた。「続ける」ということは、それだけである種の力(エネルギー)や熱を帯びるのかもしれない。そして、それこそがエッシャーの作品に、人を惹きつける力となっている。
この展覧会は東京展の後も、大阪、福岡、愛媛へと巡回していく。ぜひ、会場に足を運び、エッシャーの作品の秘める「熱」に直に接してみてほしい。