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INTERVIEW - 2017.4.4

制作を媒介に神話的世界へ。
上妻世海インタビュー(前編)

2014年から15年にかけて、「wave internet image browsing」展、「世界制作のプロトタイプ」展などのキュレーションで注目を集めた上妻世海による最新企画「Malformed Objects:無数の異なる身体のためのブリコラージュ」展。キュレーターと11名のアーティストとの「対話」によって組み立てられた本展では、そこを訪れる来場者に対しても、「指示書」というかたちでキュレーターからの「対話」が試みられた。はたして、その狙いはいかなるものなのか。前編では、その開催経緯や内容について迫る。

聞き手・構成=原田裕規
上妻世海

「奇形的なもの」をめぐる方法論的介入

──「Malformed Objects」展(註1)が開催するに至った経緯からこのインタビューを始めたいと思います。まず、どのようにしてこの展覧会は実現したのでしょうか?

 前回行った「世界制作のプロトタイプ」展(註2)以降、具体的に予定が決まっていたわけではないのですが、ノートなどに次にやりたいことのアイデアを書き溜めていました。また、友人とお酒を飲んだりお茶したりするたびに「次はどうするの?」と聞かれるので、その段階で考えているアイデアを話したりしていました。

 実際に決め手になったのは、DOMMUNEの企画でクリエイティブ・コモンズ・ジャパン関連のトークイベント(註3)に出演したときのことでした。(DOMMUNEの代表であり、本展会場の山本現代の取り扱い作家である)宇川直宏さんから「次の展覧会はどんな感じなの?」と聞かれ、「アイデアはあるんですが具体的に場所が決まっているわけではないんです」と答えたところ、宇川さんが山本現代の代表の山本裕子さんを紹介してくださり、裕子さんとミーティングをするなかで企画が具体化していきました。

「Malformed Objects」展会場風景。左は三野新の《ghost hand》(2017) Courtesy of YAMAMOTO GENDAI Photo by Keizo Kioku

──参加作家には、これまで上妻さんが扱ってきたような「ポスト・インターネット的」動向には一見して留まらない作家たちも選ばれています。どのような基準で彼らを選んだのですか?

 作家を選んだ基準は2つあります。第1の基準は、現代の情報環境によって変化した空間概念を意識的にでも無意識的にでも感じ取れているかどうかです。現代の空間は、ポスト・インターネットの定義である「情報空間と物理空間の境目が曖昧になっているもの」ではなく、情報空間と物理空間がフィードバックループを繰り返すなかで現実空間が再編成され続けることに特徴があると考えています。なので、フィードバックループのなかで繰り返し主と従を入れ替えながら作品をプロトタイプ化している作家を選びました。僕はそのような世界観を「情報技術によって回帰した神話的世界」と呼んでいます(『消費から参加へ、そして制作へ』註4)。

 第2の基準は、既存のカテゴリーに分類することでは作品の面白さを汲み取りきれないという点です。カテゴリーの硬直性は近代主義の一つの問題でもあります。たしかにモダニズムが影響力を持っていた時代では、カテゴリーの硬直性や明確性は意識的に選択され、そのなかで作家や批評家は純粋性を追求していきました。しかし、教養主義の終わりが囁かれて久しい現在、カテゴリーの硬直性は作家個人の自意識でもなければ、選ぶメディウムの問題でもなく、それぞれの作家が属する界隈が持つ解釈枠組みの問題になっています。

 例えば、建築家の人が展覧会に来ると、彼らが持つ言語で作品群を解釈しますし、メディア・アートの人や現代アートの人も、それぞれが持っている言語で作品群を解釈します。そしてその価値観や美意識の中で、「良い作品」や「悪い作品」という価値判断がなされます。もちろん「美」とは、最終的に好みの問題でもあります。なのでそれ自体を否定することはできません。

 しかし、それが既存の枠組みの保存や卓越性の維持のために判断されるようになった瞬間、作品が持つ余剰性や冗長性を捨象してしまうのです。もちろん、捨象することによってより鮮明に見えてくる表現もあれば、複数の枠組みから光を当てることによって様々な側面が露わになる作品もあります。そこで僕は後者を近代的フレームから外れた表現群として見ており、カテゴリーからの余剰性を重視して出品作品を選びました。

「Malformed Objects」展会場風景。左から篠崎裕美子《SAVE POINT》、涌井智仁《BOMBERMAN》、高田優希《IoO -Internet of Objects-》 、永田康祐《Function composition》 Courtesy of YAMAMOTO GENDAI Photo by Keizo Kioku

──今回選ばれた作家・作品のなかで、「主従の入れ替わり」や「プロトタイピング」が実際に行われたと考えられる例を教えていただけますか?

 非常に印象に残っている一幕があったので、それについて話させてください。涌井智仁の作品を見たある来場者の方から、「もし作家がポピュリズムを風船爆弾のようなものとしてとらえているのだとしたら、その認識は甘くないか?」と指摘され、涌井は「作品をつくる際には意味ではなくイメージの面白さでつくっています」と答えていました。このやり取りからわかることは、その質問者が「アーティストという主体が作品という従属物に込めた意味」が作品のすべてと考えているということです。「作家は作品の意味を説明しなければならない」という文言も最近はよく聞きますね。

 しかし、彼がその質問に答え終わるや否や不思議なことが起こりました。涌井の作品のワイヤーが突然リールのなかで絡まり始め、不気味な音を立てながら真っ逆さまに落下し、ディスプレイが飛び出るほど作品が崩壊したのです。このとき、作品は主体であるはずの作家の自意識や来場者の認識を遥かに超えて、その場にいた僕たち全員に新たな意味を伝える主体へ変化したと言えます。まさにカメラの視点は僕たちから作品へと奪われたのです。そして再度僕たちが視点を奪い返したとき時、作品の持つ意味はまるっきり変容していました。その作品は「ポピュリズムを火花程度に思っている僕たちの自意識は、ある日ポピュリストを支える基盤=市民自体を崩壊させる」という不吉な予言として立ち現れたのです。

涌井智仁 BOMBERMAN 2017

 この出来事は、「作家は作品の意味内容をすべて把握していなければならないと考える近代主義的な枠組み」から見れば、たんなる失敗を意味します。なので、あの来場者の方からは僕がその失敗を強がって肯定していたように見えていたかもしれません。しかし、僕にとって作家の自意識はそれほど重要なものではありません。むしろ作品は作家の手を離れて外化し、作家の意図やリテラルな意味の束を超えたものにならなければならないと考えています。完成品ではなくプロトタイプを、安心ではなく余剰と不安を僕は愛しています。

──プロトタイプとしての作品の条件とはなんでしょうか?

 プロトタイプとは、可能世界の一つの現実化といった束の間のユートピアの提示ではなく、そこから実際に歩き出せるような「別の土台」をつくり出すことです。哲学者、エリー・デューリングの言葉を引用するなら、「一連のつくるべき作品群の原理を示す唯一のピースとしての作品」をつくり出すこと。今回展示された涌井の作品はたしかに完成品ではありません。成功する可能性も失敗する可能性も同時に内包しています。しかし、これからつくられるべき一連の作品群のためのモデルとしてこれからも参照されることになるでしょう。

 大量生産が可能になって以降、人間は安定した商品をつくることで、あらゆるものを道具として消費可能にしました。しかし実際には人間は安定的な世界の中心ではなく、たんなる一視点に過ぎません。そして作品を含めてあらゆるモノたちは、僕たちの認識的枠組みを超えた余剰をたたえています。芸術作品は、「僕たちは安定した定点ではない」ということを教えてくれるのです。だから僕は、アーティストは完成品を目指すのではなくプロトタイプを制作するべきだと考えています。

──完成品としての作品はすでに達成された過去に向き合っているのに対して、プロトタイプとしての作品は未来を予見する力を備えていると言えますね。それに対して展覧会タイトルになった「Malformed Objects」という言葉は「プロトタイピング」とは異なった志向性を持っているように思います。その狙いについて教えてもらえますか?

 評論家・哲学者のボリス・グロイスが『Under the Gaze of Theory』(理論が見守るなかで)という論考で近代美術の観客と現代アートの観客の違いについて言及している箇所があります。それによると、かつての観客は「なんだこれは?」「わからない」と素直に疑問を抱くことができ、それに対して批評家は「わからない観客」をテキストによって導くというモデルがありました。しかし現代の場合はそれが逆の関係になっています。つまり、「これは現代アートでしょ?」という風にそれが「わかる」対象に変化しており、批評家のテキストは難解で「わからない」ものになっているということです。

 そこには過剰にカテゴライズされてしまう状況、「わかってしまう」状況があります。でも、アート自体が既存のカテゴリーでないものを志向して自身を更新する運動をその定義のうちに持っているのだとすれば、作品はアート以前の「奇形的なもの(Malformed Objects)」という状態を経由しなければならないと考えています。つまり「過剰にカテゴリーしうる歴史的環境」や「写真に収めさえすれば鑑賞終了という姿勢を生み出す情報技術環境」に対して、作品が再度「奇形的なもの」になりうるために、なんらかの方法論的介入をしなければならないと考えました。

エレベーターにはuraunyが作品を展示 Courtesy of YAMAMOTO GENDAI Photo by Keizo Kioku

──その方法論的介入について、詳しく教えていただけますか?

 「作品」は(その人の置かれている環境や文脈も踏まえた上での)「見る人」と「モノ」の間に立ち上がるものだと考えています。見る側が初めから「これはアートだよね」という態度で作品と向き合った場合には、「〇〇という文脈の上の作品だね」とか「アウトサイダーだね」とか、いくらでもカテゴライズできてしまいます。歴史上、すでに非常に多くの試みがなされているので、解像度を荒くすればそこにはすでに似ているものがある。僕と原田さんも解像度を下げてみれば、同じ人間というカテゴリーに属しますし、僕と犬は哺乳類というカテゴリーに属します。しかし、それで僕のことをわかったと言えるのでしょうか? そのような見方が支配的になりつつある場所では、素朴に「奇形的なもの」をつくるだけでは通用しないと考えています。

──もともとカテゴリーの外部にあった「奇形的なもの」が、時の流れのなかでカテゴリーを形成してしまう状況をいかに避けるかという話ですね。そのような「外部」に対して、どのような術を持って向き合うべきだと考えていますか?

 本展のステートメントと、その要約として書かれたセンテンスは、ソル・ルウィットの「Paragraphs on Conceptual Art」(コンセプチュアル・アートに関する断章)と「Sentences on Conceptual Art」(コンセプチュアル・アートに関する小文)というテキストを参照しています。ルウィットはアーティストを合理主義者ではなく神秘主義者だと述べているのですが、僕はそのことを、意味によって説明可能な領域からそうでない領域へと移り変わることについて述べたものとして理解しています。つまり、リテラルな領域から余剰の領域への移行を意味していると考えたのです。あるいは、理由によって説明できる領域から理由では説明できない領域への移行です。僕はルウィットの主張を踏襲しながら、過剰にカテゴライズされてしまう時代のなかでどうすれば「奇形的なもの」をつくることができるのかを考えることなく、本当の意味でそれを演出することはできないと思っています。

(後編につづく)

(註1)「Malformed Objects:無数の異なる身体のためのブリコラージュ」展(2017年1月21日〜2月25日、山本現代)。出展作家:池田剛介、urauny、大和田俊、木内俊克、篠崎裕美子、髙田優希、永田康祐、平野利樹、松本望睦、三野新、涌井智仁
(註2)「世界制作のプロトタイプ」展(2015年4月18日〜29日、HIGURE 17-15cas)。出展作家:梅沢和木、KazamiSuzuki、GraphersRock、50civl、千房けん輔(エキソニモ)、田中良治(Semitransparent Design)、chimpanzee(KINESYSTEM)、TOKIYA SAKBA、ヌケメ、Hachi(BALMUNG)、LLLL、HouxoQue、borutanext5、mus.hiba
(註3)「CC0 CC4.0 Release Special! CCの航海、コモンズの現在地!!」、2016/04/13/19:00-21:00、出演:ドミニク・チェン、原雅明、高橋幸治、上妻世海、協力:美学校、アートディレクション:tokyobros.、http://www.dommune.com/reserve/2016/0413/
(註4)「消費から参加へ、そして制作へ」 http://ekrits.jp/2017/01/2243/

profile

こうづま・せかい

1989年生まれ。文筆家/キュレーター。主なキュレーションは「≋wave≋ internet image browsing」展(TAV GALLERY、東京、2014)、「世界制作のプロトタイプ」展(HIGURE 17 -15cas、東京、2015)、主な論考に「芸術作品における「魅惑の形式」試論』(artscape 2016年10月15日号)「制作の共同体へ』(美術手帖 2016年12月号)
 
はらだ・ゆうき
1989年生まれ。美術家。主なキュレーションに「ラッセン展」(CASHI、東京、2012)、「心霊写真展」(22:00画廊、東京、2012)、主な編著書に『ラッセンとは何だったのか?』(フィルムアート社、2013)、主な個展に「lighthouse vol.9 原田裕規展」(switch point、東京、2014)、「エンドロール」(パープルームギャラリー、2015)など。武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科を卒業後、16年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了。17年文化庁新進芸術家海外研修制度研修員としてニューヨークに派遣。
 

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